"菅直人リスク"を背負う「原子力規制庁」設立を急ぐ民主党政府の「政治主導」は、実は霞が関の隠れ蓑

「政治主導」は民主党政権のキャッチフレーズですが、何でもかんでも政治家が口を出せばよいというものではありません。専門性の高い領域や独立性が必要な分野は政治も介入しないような組織づくりが必要です。本来は金融庁などはそういう役所で、金融庁長官は首相に直属し、大臣は置かないという姿が本来です。今では金融担当大臣が何でも口を出すのが当然のようになっていますが。。。地味な話ですが、極めて重要な話として、「原子力規制庁」という新しい規制機関をどういう組織にするか、という議論が国会で佳境です。あの悲惨な事故を繰り返さないための独立性の高い機関はどうしたらできるか。必ずしも「政治主導」ばかりが無条件に良いわけではない場合もあるのです。

オリジナルページには国会に提出されたいくつかの資料もアップしてあります。
→現代ビジネス
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31867


 「その表現だけはちょとお止めいただきたい」(野田佳彦首相)「事実に基づかない御発言は、こういう公の場所ですので、(止めるよう)強くお願いを申し上げたい」(細野豪志環境相原発事故担当相)---。2月15日に開いた予算委員会の席上、日頃は穏やかな首相と環境相が色めき立つ場面があった。

 政府が4月1日に設置する方針を掲げている「原子力規制庁」に、自民党塩崎恭久・元官房長官が噛み付いた時のことだ。塩崎議員が繰り返し「菅直人リスク」という言葉を使ったことに両氏が苦言を呈したのである。

 原発にからむ「菅直人リスク」と聞けば、多くの国民が思い当たる節があるに違いない。塩崎議員の質問を要約すればこうだ。

 原子力災害本部長になった菅首相は、東京電力福島第一原子力発電所で事故が起きた翌朝、現場に飛んで行って大混乱をもたらした。また、SPEEDI(文部科学省の緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の情報を公開せず、避難指示に活用しなかったために、多くの福島県民・子供たちを放射能に晒す結果になった。

 事故対応でも「ベントをしろ」「海水注入をとめろ」と指示、メルトダウンが起きていたにもかかわらず、それを認めず、2ヵ月も隠蔽した。原発に素人である政治家の誤った対応の結果、国民の不安をあおり、原子力政策に大きな信用失墜を招いた、と指摘している。

 さらに、中部電力浜岡原子力発電所の停止や、九州電力玄海原子力発電所の再起動撤回、事故後3ヵ月たってから突然ストレステストをやれと指示したことなど、支持率アップを狙った政治パフォーマンスではなかったのか、というのだ。そうした政治家が身勝手な行動をとることを「菅直人リスク」としたわけだ。

 そうした指摘を細野大臣が、「事実でない」として菅・前首相を庇ったのだ。事故直後から菅首相補佐官として事故対応に当たった細野氏からすれば、自らの対応の問題点を指摘されたに等しい。もっとも、震災後の原子力災害対策本部などの議事録が残っていない現状では、何が事実かは水掛け論だろう。

 政府が設立を目指している「原子力規制庁」とこの"菅直人リスク"はどう関係するのか。要は独立性の問題なのだ。

 これまでの日本の原子力規制は、経済産業省原子力安全・保安院原発を運用する電力会社を規制することになっていた。さらに内閣府に置かれた原子力安全委員会がダブルチェックする体制だったが、東電の原発事故に直面して、保安院も安全委員会も十分に機能していないことが白日の下に晒される結果になったのは周知の通りだ。

 とくに、安全規制行う保安院が、原発事業を推進する経産省の傘下にあり、人事も独立していないことから、事業推進優先で安全が後回しになったのではないか、と批判された。これに対して政府は規制見直しの全面的な見直しを表明、その結果出てきたのが「原子力規制庁」なのだ。

 政府案では設置される「原子力規制庁」は環境省の外局。経産省文科省などに分かれている規制権限を一本化、長官を置いて独立性の高い組織にすると説明している。ただし、長官の上には担当大臣が置かれ、人事権などを握る。国会答弁などでは、平時の運用は長官がトップとして行い、非常時には政治が責任を負う体制だと説明されている。

 ここを塩崎議員は「菅直人リスク」として批判。IAEA(国際原子力機関)のルールでも政治からの独立を定めており、国際的なルールにも反する、と政府を追及した。

 この点について細野大臣は真っ向から反対する。

「あれだけの事故が起こって、事故全体の責任を政治が負わなくてどうするのか」というのだ。大事故の際には政治がリーダーシップを取るべきだ、というのだ。

 これを塩崎議員は、「平時は玄人に任せますが、緊急時は素人に任せますという話だ。船が沈没しそうなときに、船長、おまえどけ、緊急時なんだから俺がやるぞといって、政治家が出てきて、舵をとったけれども、ところでエンジン、バックにどうやって入れるんだい、そんな話」だ、と痛烈に批判している。そのうえで、日本の行政組織の中で独立性が最も高い「三条委員会」方式を提言しているのだ(図「新たな原子力規制のあり方」参照)。この点については本コラムの記事でも既に触れた。

 これだけを聞くと、「政治のリーダーシップ」をどう位置づけるのかという問題のように聞こえる。実際、野田内閣の閣僚でこの「原子力規制庁」を議論した際は、どうやって「政治主導」を効かせるかということが1つの焦点になったようだ。だが、民主党政権の2年半を振り返って、民主党の言う「政治主導」が、官僚や専門家が本来やるべき事を政治家がやるというレベルに陥っていることは多くの国民の目に明らかだろう。原子力規制においても同じ轍を踏む事になる可能性はあるのではないか。

 実際、"菅直人リスク"が繰り返される危険性は十分にある。「私は安全保障の素人だが、それが本当のシビリアンコントロール(文民統制)だ」と発言して参議院で問責決議を食らい、結局は事実上更迭された一川保夫・前防衛相も一例だろう。その後任となった田中直紀防衛相も到底専門家とは思えない答弁を繰り返している。

 もちろん、野田内閣の閣僚たちは、真面目に「政治主導」を考えているのだ。だが、原子力規制庁に関する限り、霞が関官僚の手中に落ちたとみていい。

 実は、原子力規制を三条委員会方式に変えることは民主党のかねてからの主張で、野党時代に3回も議員立法として「原子力安全規制委員会法案」を提出していた。民主党自身、独立性が高い三条委員会を主張していたのだ。それをあっさり撤回したのは、「三条委員会では政治のグリップがきかない」という官僚たちの説明を真に受けたからだ。

 実は、三条委員会が俎上に登るたびに徹底的に抵抗するのが霞が関なのだ。今回の場合、原発規制を握り続けてきた経産省がそれをどう実質的に守っていくか、という視点で「原子力規制庁」の絵が描かれているとみていい。その背後には権限とポスト、そして天下り先などの利権があるのは言うまでもない。

 霞が関の中でも非力な役所として知られる環境省のそのまた外局ならば、経産省は事実上の"植民地"として支配し続けることは可能だと踏んでいる。政府は原子力規制庁の人事の独立性を保つために出身官庁から出向した場合に元に戻らない「ノーリターン・ルール」を厳格に運用するとしている。ところが、その対象は審議官以上の7ポストに限る、という報道が流れている。また、規制庁の中心母体は現在の保安院になるが、当面規制庁は保安院の庁舎を使うという報道もある。保安院経産省の建物の中にあるのだ。

 すでに幹部級のポストの配分を巡って、環境省経産省文科省などがつばぜり合いをしている、という話もある。

 問題が起きて省庁が再編されると、その期に乗じて焼け太りを目指す悲しい性に凝り固まっているのが霞が関だ。原子力の安全性を向上させ、国民の生命と財産を守るという点については、国民の誰しもが反対しない。二度とあんな事故は繰り返さないでほしいという国民の願いをどうやったら実現できるのか。その一点を真摯に考えて新しい規制機関を作るべきだろう。

 国会の下では現在、政府とは別に、原発事故の原因を究明し、今後の体制を検討する民間人からなる「事故調査委員会(国会事故調)」が本格的に動き始めている。その結論が出ないうちに新組織を立ち上げようという政府の姿勢に対しては、国会事故調の委員長を務める黒川清・元日本学術会議会長が痛切に批判する委員長声明
http://www.naiic.jp/wp-content/uploads/2012/02/Seimei_20120202_ja.pdf
を出している。東日本大震災から間もなく1年。原発事故で今も多くの国民が避難生活を余儀なくされている。国民が心の底から納得できる規制のあり方を作ることが、国会そして政府の責任だろう。