田中美千裕・亀田総合病院脳神経外科部長 「スイス在住を経て」第5回

「スイス・ビジネス・ハブ(スイス企業誘致局)ニューズレター 連続インタビュー

2012年11月号

聞き手:元日本経済新聞社チューリヒ支局長磯山友幸

スイス企業誘致局→http://www.invest-in-switzerland.jp/internet/osec/ja/home/invest/jp.html


スイスの先端医療技術の水準は非常に高い。世界中から先端技術を追求する医師が集まり、大学病院などで手術や実際の治療に当たっていることが背景にある。もちろん、日本人医師もいる。千葉・鴨川にある亀田総合病院脳神経外科部長を務める田中美千裕医師もそのひとり。カテーテルと呼ぶごく細い管を血管内を伝って脳内の患部まで通し、出血や動脈瘤を治療する新しい手術法をスイスで磨き、日本に戻って活躍している。


  スイスに滞在されていたのはいつごろですか
 田中 1998年にチューリヒ大学医学部の臨床フェローとして渡航しました。もちろん無給ですし、1年で帰って来るつもりでした。ビザも1年でしたし、チューリヒ大学病院でポストが得ることなど、まず不可能だと思っていました。ところが、1年たった頃、チューリヒ大学での師匠だった神経放射線科教授のアントン・ヴァラバニス先生に、助手として残らないか、と言われたのです。当時の日本での脳卒中の患者の治療は開頭手術が多数を占めており、脳カテーテル手術はまだまだ新しい分野でした。チューリヒ大学にいれば年間に300例近い手術を経験することができるので、助手として働くことを決断しました。
  ヴァラバニス教授もギリシャ人だそうですが、どこで知り合われたのですか。
 田中 1995年の秋に京都で開かれたWFITN(World Federation of Interventional and Therapeutic Neuroradiology)という国際学会で、私が動脈の血流を遮断する試験について発表したのですが、「そもそも遮断する場所が間違っている」という痛烈な批評を一番前で聞いていた外国人から受けました。それがヴァラバニス教授だったのです。そして、チューリヒ大学で開くワークショップに参加するよう誘ってくれました。1996年3月に1週間のワークショップに参加するためチューリヒに行きました。それまで日本の脳外科は進んでいると勝手に思い込んでいたのですが、5日間のデモンストレーションなどを見て、ヨーロッパはさらに進んでいるなとショックを受けたのです。
 その頃、日本で脳カテーテル手術に使う動脈瘤用のコイルが認可されました。これからカテーテル手術の時代になるだろうと思い、早い段階でヨーロッパに行こうと考えました。実は、大阪にある国立循環器病センターのレジデントだった時、脳血管外科部長だった橋本信夫先生から「メジャーな仕事で一流の人間は、マイナーな仕事も一生懸命やるものだよ」と言われたことがあります。私の人生を決定づけたひと言と言ってもよいでしょう。橋本先生はその後、京都大学教授などを経て循環器病センターの理事長になられました。私の恩人のひとりです。
  チューリヒに行く決断をされた時は反対は無かったのですか。
 田中 もうひとり恩人がいます。国立循環器病センターに研修に行く際も快く送り出してくださった横浜市立大学脳神経外科の山本勇夫先生が、チューリヒ行きも後押ししてくれました。横浜市立大学の助手枠でチューリヒ大学に行けば、給料は出たのですが、そうなると絶対1年で帰って来なければなりません。実は山本先生からは「新しい技術なので、チャンスがあったら長くいろ」と言われてスイスに赴いたのです。このひと言も私の人生に大きな影響を与えました。
  結局、いつまでおられたのですか。
 田中 2004年3月までです。3人目の恩師であるヴァラバニス先生には、2003年にチューリヒ大学の講師にしていただき、脳血管内治療部の主任という役職を与えてもらいました。36歳で大きなチャンスを与えてくれたわけです。チューリヒには家族と一緒に行きましたが、子どもの教育の問題もあり、スイスでの永住も考え始めていました。その頃からいろいろな病院からお誘いの声がかかっていました。エジプトの病院に来ないか、という話もありましたが、むしろスイスを離れるなら日本に帰ろうと思っていました。そんな時、亀田総合病院心臓血管外科の外山雅章先生と現理事長の亀田隆明先生から声をかけていただいたのです。
  なぜ亀田病院に決めたのですか。
  田中 「やりたいと思う手術室を作っていい」と言われたのが決断した最大の理由です。脳のカテーテル治療を立ち上げる段階から始め、チューリヒで使っていたものと同じ高額の機械を買っていただきました。手術室の設計からできるというのは、外科医にとって夢です。
  田中先生がチューリヒ大学で手術をされていたように、スイスの医療はかなり開かれていますね。
 田中 大学病院はそうですね。ドイツ人だったアインシュタインチューリヒ工科大学で学び、教鞭も取たったのは有名ですが、スイスの大学は外国人にオープンです。大学病院ではたくさんの外国人医師が働いています。ヴァラバニス先生のように教授のポストを得ている人もいます。私がチューリヒに行った時は、国立循環器病センターの部長だった米川泰弘先生が脳神経外科の主任教授を務めていらっしゃいました。
  スイスの医療をどう評価されますか。
 田中 ひと言で言って「堅牢」ですね。政府の医療制度も堅牢だと思いますし、経営基盤も堅牢です。患者さんの3分の1は海外からやってきます。日本でもようやくメディカル・ツーリズムの重要性が言われるようになりましたが、これをスイスは昔からやっています。外国人を受け入れることで病院にお金が落ち、病院の設備も技術も向上することによって、結果的に自国民にもプラスになる。門戸を閉ざしている日本とは発想が違います。また、建物は古いですが、きれいです。100年前から変わらない講堂で学生が講義を受けている。20〜30年で作り変えるようなことはしません。資源の節約ですね。
  保守的なのですか。
 田中 一方で医療技術に関しては革新的、先鋭的と言っていいでしょう。新しいものに果敢に挑戦します。世界最初の心臓カテーテル手術が行われたのも、ペースメーカー手術が行われたのもチューリヒだったそうです。チューリヒ大学病院で働いていて、理不尽だなと思ったことは1つもありません。人種や年齢による格差はないのです。45歳よりも35歳の方が手術が上手ければ給料が高くなります。契約ですから、自分が納得する給料で働くわけです。

  医療保険制度も日本とはだいぶ違いますね。
 田中 日本はスイスに学ぶべきでしょうね。国民皆保険制度によって医療は誰でも簡単に受けられ、救急車もただ、手術代は教授でも研修医でも同じというのは社会主義です。医師が競争するモチベーションをそいでいる。しかも、その皆保険も医療費の急増と保険料の未払い者数急増などで大きく揺らいでいます。スイスの保険制度は例えて言えば「ファーストクラス」「ビジネスクラス」「エコノミークラス」の3種類。日本でそういう話をするとファーストクラスだけが良い医療を受けられてエコノミーの患者はまともな医療が受けられないような説明をされ、差別だと言われますが、そうではありません。初診の時に待たされる時間が短いとか、希望の教授の診察を受けられるといういわばサービスの差です。スイスの医療は高いけれどもそれに見合ったサービスが受けられる。だから外国人もやってくるのです。保険の違いはどこまでが保険でカバーされるかです。スイスの場合、医療保険は民間の保険会社がやっており、費用負担と補償範囲が自分に合った保険を選ぶことができます。
  ご家族と住まれて、スイスの生活はいかがでしたか。
 田中 物価が高いので貯金を取り崩して生活していた最初の1年は本当に大変でしたが、給料をもらうようになってからは生活を楽しむことができました。子どもたちもまだ小さく、多感な時期でしたから、自然豊かなチューリヒで生活できたのは何よりの財産です。
 問 今はスイスとの接点はありますか。
 田中 国際学会などがあると、チューリヒに行っています。また、日本に住むスイス人を中心とした集まりである「スイスクラブ」にも入れていただき、イベントなどには出ています。私の人生を大きく変えたスイスとのご縁をこれからも大切にしていきたいと思っています。

田中美千裕(たなか・みちひろ
1966年神奈川県横須賀市生まれ。1991年山梨医科大学(現山梨大学)卒、横浜市立大学臨床研修医。1993年横浜市立大学脳神経外科、1994年国立循環器病センター(現・国立循環器病研究センター)脳血管外科、1996年小田原市立病院脳神経外科を経て、1998年スイス・チューリヒ大学神経放射線科臨床フェロー。1999年同助手となり、2003年チューリヒ大学医学部講師・同脳血管内治療研究所主任。2004年亀田総合病院放射線科脳血管内治療部長、2005年同脳神経外科部長。日本脳神経外科学会専門医、日本脳神経血管内治療学会専門医。


磯山友幸(いそやま・ともゆき)
1962年生まれ。早稲田大学政経学部卒。1987年日本経済新聞社入社。証券部記者、日経ビジネス記者などを経て2002年〜2004年までチューリヒ支局長。その後、フランクフルト支局長、証券部次長、日経ビジネス副編集長・編集委員などを務めて2011年3月に退社、経済ジャーナリストとして独立。熊本学園大学招聘教授なども務める。

ブランド王国スイスの秘密

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