街再興の触媒となった 神田淡路町のマドンナ

ウェッジ9月号(8月20日発売)の連載コラム「地域再生のキーワード」は東京神田の再開発(ワテラス)を取り上げました。是非ご一読ください。オリジナル→ http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4177

Wedge (ウェッジ) 2014年 9月号 [雑誌]

Wedge (ウェッジ) 2014年 9月号 [雑誌]

「彼女は、数奇な運命をたどって、この町に棲みついてしまったって感じだね」。東京・神田を代表する老舗「かんだやぶそば」四代目の堀田康彦(70)さんは、目を細めてこう語る。彼女とは松本久美さん(33)。神田淡路町を再開発し、2013年春に複合施設「WATERRAS(ワテラス)」をオープンさせた安田不動産の社員だ。

 もともと松本さんがこの町に関わるようになったのは明治大学の博士課程の学生だった5年以上前のこと。再開発の合意形成を研究するためのフィールドワークとしてやってきた。地域の多くの人たちに話を聞き歩くうちに、東京の中でも指折りの「古い町」である神田のコミュニティに徐々に溶け込んでいった。実際には他所から神田に通っているのだが、今では昔からの住民どうしのように迎えられている。

 再開発は千代田区立淡路小学校があった場所を中心に区画整理し、複合ビル2棟を中心とした施設を造るというものだった。主棟は高さ165メートルの高層ビルで低層階はオフィス、高層階は高級分譲マンションとした。背の低いもう1棟には、商業施設や学生マンションが入った。

 再開発前のこの地域の住民はざっと100人。完成後は333戸の分譲マンションを中心におよそ1000人が暮らす町に変貌した。どうやって急拡大するコミュニティを維持・発展させるか。マンション建設でしばしばみられるような新旧住民が分離し、町が二分されては再開発の意味がない。安田不動産にとっても初めて取り組む、都心での本格的な大型再開発案件だった。地元の住民と融和できるかどうかは、会社のブランド・イメージを大きく左右する。

 「町の発展に貢献して欲しい」。淡路小学校校区の5町会や千代田区から、安田不動産はそんな期待を寄せられていた。容積率を515%から990%に拡張することと引き換えに、コミュニティ施設の建設や運営が求められた。若い学生を住民にするための学生マンションもその一つだった。

 当時、住民との交渉に当たっていた安田不動産須川和也さん( 53 、現・取締役開発第一部長)は、再開発を機に町を再興させたいという地元のニーズをヒシヒシと感じていた。何世代にもわたって人々が暮らしてきた都市中心部の再開発で最大の難点は細分化された権利関係の調整である。200人以上の権利者全員から再開発の合意を得たのは、須川氏らの手腕もさることながら、再開発への期待の大きさを物語っていた。

 江戸の人情味を引き継ぐ神田の町には、今でも昔ながらの町会や地域活動が生きている。ところが住環境の変化で若い世代がどんどん流出し、住民の数が激減していた。それを如実に示しているのが神田祭。それぞれの町会は競って立派な神輿を作り、それを維持してきたが、今や住民だけでは担ぎ上げることはできない。このままでは町が滅びてしまうという危機感が住民の間にしみわたっていたのだ。

 そんな期待を感じていた須川氏の目に留まったのが、熱心に地元の声を聞いていた松本さんだった。松本さん自身、博士となっても将来の進路を描けずにいた。須川氏が松本さんを上司に売り込むと、いくつかの偶然も重なって、安田への就職が決まった。11年4月のことだ。新しいコミュニティづくりを目指して安田不動産は、地元住民と一緒になって地域おこしのための一般社団法人「淡路エリアマネジメント(AAM)」を設立する。松本さんは須川氏の下、事務局サブマネージャーとして、地域活性化の触媒役を担うことになった。

 地域の人たちとの交流を通じて松本さんが考えたのが、どうやって「住み続けられる町づくり」を実現するかだった。そんな思いが「人情、情緒を引き継ぎ、大きなコミュニティをはぐくむ」というAAMの基本理念となった。ワテラス内にできるコミュニティ施設「ワテラスコモン」と、学生マンション「ワテラススチューデントハウス」の運営、町会やNPOなどとの地域連携が松本さんの仕事になった。

 ワテラスコモンは13年4月に完成したワテラスの顔になった。1階には様々なイベントが行えるキッチン付のセミナールームがあり、扉をあけ放てば、公共広場と一体化して活用できる。2階には誰でも自由に使えるおしゃれなライブラリーがあり、地域住民だけでなく、オフィスで働く人や、ふらっとやってくる人たちの憩いの場になった。3階には安田不動産の子会社が経営するカフェと、小ホールがある。

 そこで展開されるイベントも「新旧の神田」にこだわったものが多い。丸の内の地域おこしで実績のあるグッドモーニングス(東京都目黒区、水代優社長)などの協力を得て、日本文化を知るワークショップなどを定期開催している。広場では月に一度、地方の農産物などを販売するマルシェを実施しているほか、夏の期間限定で、商業施設のテナント店が協力したビアガーデンも開いている。

 中でも松本さんが力を入れているのが学生マンション。約20平方メートルのワンルームマンション36室を、学生限定で貸す。月額家賃は6万5000円(他に管理費1万円)と都心の一等地としては破格だが、その代わり地域の交流活動やボランティアへの参加を義務付けられている。若者のエネルギーをコミュニティに注ぎ込むのが狙いだ。

 神田祭の神輿担ぎ、年末の夜警、イベントの会場設営や受付。地域の活動に参加した学生はポイントがもらえ、年間12ポイントをクリアしなければ「強制退去」させられる仕組みを作った。昨年1年間では36ポイントを得た学生がいた一方で、クリアできずに退去させられた学生も出た。

 「松本さんは全力疾走ですよ。見ていて、仕事が面白くて仕方がないという感じだね」と、淡路町二丁目町会長を務める呉豊良さん(73)は笑う。今や松本さんは、町の旦那衆のちょっとしたマドンナだ。

 呉さんはもともと再開発エリア内で商店を営んでいたが、今はワテラスの30階に住む。呉さんのようにワテラスに戻ってきたもともとの住民は100人中80人にのぼる。形を変えながらも昔ながらのコミュニティも生き続けているのだ。再開発の結果、人の流れが大きく変わり、淡路町地区が活気づいてきた、と旦那衆は口をそろえる。

 松本さんには今、一つの計画がある。神田の町に本当に移住して、棲みつこうと考えているのだ。「どうせなら、家持ちの良い男を探してやろうか」などという旦那衆の軽口をよそに、松本さんはすっかり神田の町にほれ込んでいる様子だった。