蘇った「水の都・大阪」、公共空間の使い方をリセット

Wedge(ウェッジ)11月号(2019年10月20日発行)掲載の「Value Maker」の記事です。是非ご覧ください。

 

Wedge (ウェッジ) 2019年11月号【特集】ポスト冷戦の世界史 激動の国際情勢を見通す

 大阪・北浜。かつては証券会社が軒を連ねる株式取引の町で、東京の兜町と並ぶ金融の中心だった。バブルの頃までは大いに賑わっていたが、電子商取引の普及や東京への一極集中で、今ではすっかり活気は失せている。

 そんな北浜で、かつて賑わいをみせていたころには誰も目を向けなかった一帯が、今、おしゃれな人気スポットに変身している。「北浜テラス」と呼ばれる淀屋橋にかけての土佐堀川に面した一帯が、若者や外国人観光客の憩いの場になっているのだ。

 太陽が傾き、町が夕闇に沈んでいく頃が、最も美しい。カフェやレストランが設けたテラスに座り、川面を眺めながらグラスを傾ける。対岸の中之島公園ではレンガ造りの中央公会堂がライトアップされ、ムード満点だ。

 バブルの頃は、北浜側から川面を眺めることはできなかった。高い護岸堤防に目隠しされていたからだ。川に面したビルも窓を開けることなどまずなかった。臭うからだ。対岸の中之島公園もホームレスがたむろする場所で、カップルが歩けるようなところではなかった。川は、都会によくあるドブ川のような扱いがされていた。

官民挙げて「規制突破」

 それが人気スポットに変身したのは、官民挙げて取り組んだ、ある「規制突破」が実現したからなのだ。仕掛け人は都市計画プランナーの泉英明・ハートビートプラン代表だ。

 泉さんのアイデアは、堤防に面したビルオーナーたちで、堤防の上に張り出すテラスを作れないかというもの。京都の鴨川で夏の風物詩になっている「川床」を、土佐堀川でも実現してしまおうというものだった。しかも、常設だ。河川やその周辺は大阪府市だけでなく、国土交通省など様々な官庁の規制がからむ。

  「そんなことできるんかいな」

 泉さんたちNPOメンバーは淀屋橋から堺筋、今橋にかけて、土佐堀川に面したビルのオーナーを一軒一軒訪ね歩いた。2007年くらいのことだ。ちょうど、大阪府市と経済界による、「水都大阪」プロジェクトが進んでいた。大阪は市内をぐるりと川と掘割が囲み、明治の頃まで「水の都」と呼ばれていた。生活と水辺が結びついていたのだ。それを復活しようという試みだった。

 府市は二つのシンボル的なハード整備を進めていた。一カ所は大阪ミナミの中心地にある道頓堀。もう一カ所は京阪電鉄天満橋駅北側の八軒家浜(はちけんやはま)だった。八軒家浜は北浜のすぐ隣。川の上流だ。

 泉さんの呼びかけに応じたひとりが山根秀宣さん。不動産賃貸業を営む傍ら、大阪の魅力再生を目指す「大阪まちプロデュース」を主宰する人物だ。ちょうど売りに出た北浜の土佐堀川に面したビルを買うかどうか迷っていた。「どう考えても値段が高くて賃貸では採算が取れない。しかし、話は面白いので、会社で買うのは諦めて、自分個人で買うことにしたんです」と山根さんは振り返る。06年のことだ。

 泉さんの真骨頂は、行政でも大企業でも、小さなビルのオーナーでも、どんどん巻き込んでいく力を持っていること。その人脈と調整力は関わった人の誰もが認めるところだ。

 08年10月、誰が見ても不可能と思われた「川床」を実現にもっていった。ただし1カ月だけの期間限定だった。北浜の「そば切り てる房」など賛同した3店が川床をオープンした。大阪のほとんどと言ってよいメディアがこれを取り上げ、大人気になった。あっと言う間に予約で埋まり、当時大阪府知事だった橋下徹氏すら視察できないほど。大成功を収めた。

 泉さんたちは川床の「常設化」に向けて動き出す。河川管理者の大阪府も「問題が起きた時や毎日の運営に責任を取れる地域主体があるなら考える」と柔軟な態度を示した。1カ月の実験の結果が効いていた。泉さんはオーナーたちと「北浜水辺協議会」を設立。デザインや運営ルールを決めたうえで、行政から常設の許諾を得た。今、「北浜テラス」は15店舗が川床を出し、年間2万人だった利用者が20万人に膨れ上がっている。

出身地の東京から大阪へ

 もともと泉さんは大阪人ではない。1971年東京生まれ。手塚治虫の全集を読み漁っていて地球環境問題に関心を持った。大学を選ぶ時に、珍しく「環境工学科」というのがあった大阪大学に進学した。それが、大阪との出会いだった。

 大学時代はバックパックで世界を回り、バイクで国内を旅した。環境に興味があった泉さんが都市再生に取り組むきっかけになったのは、3年生の時、「都市再開発」という授業を取ったこと。「面白くて夢中になり、全部真面目に出た」と泉さんは振り返る。卒業後、都市計画の専門家である石関雍夫氏の下で10年間修行を積み、04年にハートビートプランを設立した。

 道頓堀もかつては水質浄化のためのかくはん装置があって舟が通れないドブ川だったが、今ではすっかり変わった。観光客を乗せた大小さまざまな舟が通り、有名なグリコの看板を下から見上げている。中之島公園から土佐堀川を下って木津川に入り、道頓堀川を通って再び中之島公園に戻るという、市内をぐるっと一周する船旅も楽しめるようになった。

 水都大阪で船を操る中野弘巳さんはNHKのディレクターを辞めて「御舟かもめ」を開業。オーナー兼船長となった。チャーターで観光コースなどを巡る。「船会社もたくさん増えています。道頓堀など人気スポットに近い船着き場は予約でいっぱいで、なかなか着岸できません」と人気ぶりを語る。

民間の力こそが大事

 次に泉さんが関わったのが、JR大正駅近くの水辺開発。係留した船を改造した「SUNSET2117」というバーがなどあり、知る人ぞ知る水辺利用のメッカのような場所で、そのオーナーは泉さんの水辺の師匠のような存在。様々な社会実験やビジョンづくりを経て、若い経営者が大正橋に近い尻無川の河川敷に、商業施設や水上ホテルを開業する予定だ。大阪ドームシティのすぐ近くだ。

 「公共空間というのは誰のものでもない。市のものでも国のものでも。問題はそれをどう公共のために使うか。皆が納得するなら個人に任せてもいい」と泉さんは言う。公園や道路は本来、利用するコミュニティーが運営すればいいのだが、お上に任せることで、あたかもお上のもののようになっている。だからやたらと「規制」する看板が立つ。「ルールを作る権利を行政が持っているように勘違いしている。それは考え方がそもそもおかしい。本来自分たちのものなのに」と泉さん。

 大都市の中に埋没し、忘れ去られた空間に、もう一度息を吹き込んでいく。そんな都市再生が成功するかどうかは、行政の力ではなく、民間の力こそが大事なのだということを泉さんは証明している。