新潮社フォーサイトに2月10日に掲載された拙稿です。ぜひご一読ください。オリジナルページ→
https://www.fsight.jp/articles/-/47745?st
新型コロナウイルス感染症の蔓延で、医療体制が崩壊の危機に瀕している。世界保健機関(WHO)のまとめでは、人口1000人当たりの病床数は日本は13.1床で世界トップ。OECD(経済協力開発機構)加盟国37カ国平均の4.7床を大幅に上回る。他の国は、ドイツ8.2床、中国4.2床、イタリア3.6床、英国3.3床、米国3.0床といったところだ。
ところが、人口1000人当たりの医師数となると様子は一変する。日本は2.29人で何と世界55位、世界平均の1.8人は上回るものの、ドイツの3.68人やイタリアの3.48人、英国の2.74人、米国の2.42人に及ばない。ちなみに看護師は11.49人で世界4位、英国の8.89人を上回る。
つまり、国ごとの統計で見ると、日本は病床があり、看護師もいるが、医師が足らない、ということになる。前述の医師数の統計は2010年とやや古く、その後、日本の医師数は年率3%ペースで増えているが、それでも2018年の厚生労働省の調べでは2.58人にとどまっている。
医学部「高額授業料」は参入障壁?
2012年末に第2次内閣をスタートさせた安倍晋三前首相は、就任当初「アベノミクス」を掲げ、声高に規制改革を主張した。「アベノミクスの1丁目1番地は規制改革だ」とし、「岩盤規制」を自らがドリルの刃となって穴を開けると繰り返し述べた。その「岩盤規制」と名指ししたのは、「農業」「雇用制度」と並んで「医療」だった。
医師を抜本的に増やすには大学の「医学部」を新設するのが手っ取り早い。ところが、日本医師会は医学部の新設に大反対だった。医師会幹部の大半は開業医で医院や病院経営者でもあるから、医師の数が増えれば競争が激化し、お客である患者の数が減って儲からなくなる。高齢者の自己負担を増やすことにも強く反発したが、これも「高齢者の負担が増えれば医療を安心して受けられなくなる」という多くの人が賛成する正論の背後には、高齢者の受診が減れば経営が苦しくなるという事情がある。
既存の医学部保有大学も医学部の新設に大反対だった。新規参入が増えれば、当然、競争が激化する。猛烈に高い医学部の授業料が、価格競争で守れなくなるからだ。ちなみに高い授業料は既存の医師たちにとって好都合なのだという。医学部の授業料は普通のサラリーマン世帯では、いくら子どものためとはいえ、払うことは難しい。ところが、自分の子どもを医師にして後を継がせたい親にとって、授業料が安くなって受験希望者が激増すれば、自分の子どもが医者になれる可能性が減る。これは歯科医の話だが、奨学金を出して有能な人材を集めるべきだという議論が出た際、圧倒的に反対が多かった。これも、自分の子どもに継がせるのが難しくなるというのが本音だったという。
2018年に東京医科大学で発覚した不正入試問題をきっかけに多くの医学部で卒業生の子女などを優遇していたことが判明したが、これも医師たちの「既得権」を守る仕組みの一端が露呈したものといえる。
岩盤規制改革は既得権を持つ人たちの利権に穴を開けることにつながる。安倍内閣は「国家戦略特別区域(特区)」を岩盤突破の道具に使った。特区担当大臣と、特区に指定された地域の首長、そしてそこで規制緩和を求める事業者の3者が規制緩和で一致すれば、規制を所管する大臣はそれを尊重して特例を認めなければならない、という仕組みだ。この特区を使って医療分野にも風穴を開けようとしたのだ。
特区に指定された千葉県成田市に2017年4月に新設された国際医療福祉大学医学部は、医学部新設としては約40年ぶりだった。同大学自体は1995年の開学以来、数多くの地域病院を買収して傘下に収める一方、長年にわたって医学部の新設を要望していたが認められずに来た。しかし、成田市が成田国際空港を多くの外国人が利用する国際拠点という位置づけで特区化された経緯から、国際医療を担う医療人材を育てるという「特例」で医学部設置が認められたのだ。
同医学部では教員の1割に当たる約30人が外国人だ。医師会が折れたのはあくまで「特例」ということからだった。本来、特区は規制改革の実験場という位置づけであり、そこで成功した特例は全国展開されることになっているが、以降、医学部新設の話は出ていない。
「有事」対応を阻む医師会の既得権
新型コロナ関連では、他にも様々な「規制」が対応策の前に立ちはだかった。
典型例がオンライン診療だ。これも安倍内閣の規制改革会議で長年にわたって議論され、2018年6月には「規制改革実施計画」にその解禁が明記され、閣議決定された。直前の2018年4月からオンライン診療が保険適用されることになったが、対象になる疾患が限られていた他、毎月対面診療を行なっている場合の補助的な診療に限られ、3カ月間対面診療がなかった場合にはオンライン診療は保険適用にならないといった具合だった。医師会からすれば、オンラインだけの診療などまかりならず、ましてや初診からオンラインなどとんでもない、という話だった。
閣議決定に加え、経済同友会が「オンラインによる診療から服薬指導までの一気通貫の実現を」と題する提言を2019年4月にまとめたことなどもあり、厚生労働省は検討に乗り出した。そんな「遅々として進んでいる」(当時規制改革推進会議議長だった大田弘子氏)状況の最中に、新型コロナの蔓延が起きた。
規制改革推進会議は緊急事態宣言が出された4月7日に、初診から「オンライン診療・電話診療」を活用できるようにすべきという「意見」を決議、政府が同日閣議決定した「緊急経済対策」に盛り込まれた。これで臨時措置としてオンライン診療ができるようになったが、これはあくまで「緊急措置」で、恒久的な措置とすることに、厚労省や医師会の抵抗は続いた。河野太郎行革担当相と田村憲久厚労相が「初診から解禁」で合意したものの、今もまだ検討中だ。
もっとも、地域の医師会などはオンライン診療の解禁に理解を示すようになった。新型コロナの感染が広がる中で、発熱者から来院相談があった場合、まずは電話やオンラインで診療することの有用性を感じるようになったからだ。突然、発熱者に来られれば、医師も大きなリスクを負うことになる。
規制が邪魔しているケースはまだある。
今、新型コロナウイルスに対するワクチンの接種が最大の課題になっているが、実際に接種することになる自治体が頭を抱えている問題がある。接種会場の準備はいいとして、実際に接種する人員を確保できるか、だ。今の日本の法令では、医師以外で予防接種の注射を打てるのは看護師に限られる。前述のように看護師の数は比較的多いので、ここは何とかできるとして、会場に必ず医師がひとり立ち会わなければならない、というのだ。そうでなくても医師が足りないという中で、簡単な処置であるワクチン接種まで医師が必要になるのだ。
実は、こうした簡単な処置や検査でも医師・看護師だけしかできないという規制に挑んだ会社がある。2007年に創業したベンチャー企業のケアプロが「ワンコイン健診(現セルフ健康チェック)」に乗り出した際、検査希望者が自分自身で採血する簡易検査の法的位置付けは明確ではなかった。これが規制改革によって法的に問題ないということになり、看護師や医師がいなくても血糖値測定など簡単な検査を行えることになった。だが、予防接種など医療行為については規制の壁が立ちはだかっている。2015年になっても巡回検診に医師がいなかったとして問題になったことがある。
今回、全国民にワクチン接種するという前代未聞のプロジェクトで、医師不足・看護師不足に輪を掛ける「規制」が浮き彫りになっているのだ。
もちろん、法律を変えればいいではないか、という声もあるだろう。新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)と感染症法の改正法が国会で可決成立し、2月13日から施行されるが、厚労大臣も務めた塩崎恭久・衆議院議員は不十分だと語る。「政府は一貫して『平時』モードから抜け切れず、一向に、覚悟を決めた『有事』モードに完全転換し切れていない」というのだ。
例えば、病床の利用方法について都道府県知事や厚生労働大臣が「命令」する権限は規定されておらず、あくまでお願いベースでしか対応できない。あるいは、いくつかの病院に新型コロナ患者を集約し、そのほかの病院を非コロナ患者受け入れ先にするといったことも命令できないのだ。それも既得権を握る医師会との調整を行うという「平時」モードにこだわっているからだ。もちろんその既得権が様々な規制によって守られていることは言うまでもない。
新型コロナが終息した後の「ポスト・コロナ」時代は、人々の行動も生活スタイルも大きく変わるだろう。そうした中で、古い規制を見直し、既得権に手をつけていくことは不可欠である。