リスキリングを進めると失業が増える!?構造的賃上げの前には痛みが 来年1月には雇用調整助成金廃止

現代ビジネスに12月4日に掲載された拙稿です。ぜひご一読ください。オリジナルページ→

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インフレ、それでも賃金上昇は起きない

物価上昇が止まらない。2022年10月の消費者物価指数の上昇率(季節調整値)は生鮮食品を除く総合で3.6%と、9月の3.0%増に続いて3%台の伸びになった。生鮮食品とエネルギーを除いた指数でも上昇率は2.5%と2.0%を超え、日銀が長年、目標としてきた「2%の物価上昇」を主要な指数がすべて上回ってきた。

10月まで「物価上昇は一時的」と言い続けてきた日銀の黒田東彦総裁も、11月に入ると「かなりの上昇率」だという認識を示した。物価上昇にブレーキをかける定石は「利上げ」だが、日銀は大規模な金融緩和を継続する姿勢を崩しておらず、ブレーキをかける素振りを見せない。

物価上昇の主因はこれまで海外エネルギー価格の上昇だとされてきた。また、円安で輸入価格が上昇していることも、国内物価を押し上げている。政府・日銀が円安に対抗して円安ドル売りの為替介入を行い、目先の円安は一段落している。

企業が輸入するモノの価格である輸入物価指数は10月も上昇を続けたが、上昇率は9月の48.5%から42.6%に鈍化した。それでも企業物価指数は9.1%という高い上昇率が続いており、最終商品への価格転嫁の流れはまだまだ続きそうだ。消費者物価の上昇が鎮静化する気配は見せない。

庶民感覚では物価の上昇は3%どころではない。とくに統計では価格変動が激しいとして除外される「生鮮食品」の上昇が著しい。調査でも「生鮮魚介」が16.0%上昇、中でも「サケ」が28.4%も上昇していることなどが示されている。「生鮮野菜」も6.7%上昇している。漁船の燃料代や野菜栽培の肥料代などのコストが上昇していたものが価格に転嫁され始めていることが大きいと見られる。もちろん、電気代やガス代は20.9%も上昇している。物価上昇がボディブローのように生活を圧迫し始めているわけだ。

米国などは猛烈なインフレに見舞われているが一方で給与も大きく上昇している。日本の問題はこの「賃金上昇」がなかなか起きないことだ。厚生労働省が発表している「毎月勤労統計」には、それがはっきりと現れている。最新である9月の調査(従業員5人以上)では、「現金給与総額」は2.2%増えたものの、物価上昇を差し引いた「実質賃金」は1.2%のマイナスになった。実質賃金がマイナスになるのは、物価上昇が本格化した2022年4月から6カ月連続だ。物価上昇に賃金上昇が追いついていないのである。

労働移動促進というけれど

こうした状況に対して、黒田総裁も岸田文雄首相も、「構造的な賃上げ」に取り組むと強調している。安倍晋三内閣では「女性活躍促進」「人生100年時代」といったキャッチフレーズの下、女性と高齢者が労働市場に「投入」する政策が促進されてきた。結果、雇用者数は高度経済成長期やバブル期を上回り、過去最多になった。黒田総裁はこうした女性や高齢者の労働市場参入が限界に達しつつあるとし、構造的な労働力不足が生じるとしている。人手不足が深刻化するのだから、給与は上がるだろう、というわけだ。

ただし、同じ企業が人を抱え続けていれば賃上げは動き出さない。「新しい資本主義」で岸田首相が打ち出したのは「労働移動の促進」をすることによって、人々がより賃金の高い企業や産業へシフトしていくという構造変化である。それを後押しするために働き手が「リスキリング」するよう政府が支援するというのだ。

日本の経済成長が鈍化した原因には硬直化した労働市場の問題があるということは長年指摘されてきた。安倍内閣アベノミクスを打ち出した早い段階から「労働市場改革」を念頭においていた。「労働移動の促進」は「新しい資本主義」でも何でもなく、安倍内閣以来続く「懸案」で、「安倍一強」と呼ばれた政治勢力の中でも実現できなかった難問だ。

今後、労働力全般が減少していく中で、労働移動を促進しようと思えば、低賃金で人材を抱えている企業に人材を吐き出させる必要が出てくる。当然、企業は優秀な人材を残し、そうでない人を解雇しようとする。これまでの日本の雇用慣行の中では企業が傾かない限り「解雇」することは難しい。

安倍内閣が労働移動の流動化に踏み出そうとした2013年には野党や労働組合から「解雇促進政策」だと猛烈な批判を浴び、さっさと看板を下げた経緯がある。だからこそ岸田内閣は「リスキリング」を掲げているわけだ。労働者自らがスキルをアップして働き先を変えて欲しいというわけだ。

リスキリングの間に失業を

だが、この政策を押し進めようとすれば、必然的に失業が生まれることになる。「リスキリング」している間、失業することをむしろ勧める政策とも言える。しかし、スキルアップに挑戦するのは働き手自身だ。政府はその後押ししかできない。企業も「リスキリング」させたら他企業に転職されると思えば、支援に難色を示す。

若手社員を海外の大学院などに留学させる日本企業は大きく減っているが、経営者が口を揃えるのは「せっかく留学させても、戻ったら辞めてしまう」というものだ。スキルアップした人材の給与を一気に引き上げることは同じ社内では難しいから、結局、他社に転職してしまうわけだ。これは民間企業だけでなく、中央官庁など政府部門でも一緒である。

企業はスキルアップした人材を高い報酬で雇おうと思えば、優秀でないとみなした人材の解雇に動く。解雇できなければ、総人件費が増えてしまうので、優秀な人材の給与も上げられないというジレンマに陥る。結局、本気でこの政策を進めようとすると、企業に解雇しやすい法体系を整えることになる。当然、失業率は上昇するし、スキルが上がらない人は失業状態が続いたり、現状よりも低賃金で働くことを余儀なくされる。

ひと口に「労働移動」と言うが、その痛みは大きい。もちろん、その痛みに耐えなければ日本経済の成長はない、という言い方もできるが、それに社会全体が耐えられるか、政権が政治的にもつか、である。第2次安倍内閣当時は株価も上昇し、景気も回復期待が高まっていた途上にあった。その時でもできなかった事を支持率がガタ落ちしている岸田内閣が実行できるのか。

岸田内閣は1月末で「雇用調整助成金」の特例を廃止する方針を打ち出している。雇用を抱えさせるために余剰人員分の人件費を国が補填する仕組みだ。「新しい資本主義」で打ち出した「労働移動」とは真逆の政策なので、廃止は整合性をとる上でも正しい。だが、助成金を止めれば企業自身が破綻したり、存続のために余剰人員の解雇に動くことが予想される。

物価上昇が著しく景気が悪化しかねない中で、失業率を上げる政策に踏み出せば、政権批判が一段と高まることになるだろう。政府日銀が「他力本願」のように口にする「構造的賃上げ」を本気で実現するためには、大きな痛みを伴うわけだ。果たしてその痛みに耐えられるか。1月末で「雇用調整助成金」が廃止された後の労働市場の行方に注視したい。