時代の変化に身の丈を合わせる佐野十全堂薬局

雑誌Wedge 2022年11月号に掲載された拙稿です。Wedge ONLINEにも掲載されました。ぜひご一読ください。オリジナルページ→

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/28925

 

「環境の変化に合わせて身の丈を変えてきたから生き残れたのだと思います」

 神奈川県秦野市で「地元の薬局」として親しまれている「佐野十全堂薬局」。3代目の社長を務めた佐野友保会長は、時代の変化を読み変化することの重要性を説く。ドラッグストアがいくつもできる中で、どう闘うかを常に考えてきた。

 薬局チェーンが広がった1970年代には、対抗して多店舗化を進めた。23歳で父から受け継いだ時には1店舗だった店舗を、ピーク時には15店にまで増やした。といっても、実際につくった店舗は25。時代と共に品揃えの豊富さが求められるようになると小さな店舗をたたみ、店舗面積の大きい店をつくった。「スクラップ・アンド・ビルドを繰り返したわけです」と佐野さん。住宅開発などで町が移り変わるのに合わせて、店舗の配置も見直した。

 十全堂は佐野さんの祖父、佐野光治氏が1905年(明治38年)に創業した。1890年代に本家が「保全堂」という屋号で商売を始め、そこで働いていた祖父が独立、「佐野十全堂」を屋号にして開業し、生薬の丸薬などを扱った。今も当時の丸薬販売の代理店であることを示す板看板がいくつも残る。薬のほか、酒やビール、塩、雑貨など生活必需品を揃え、現在のドラッグストアのような業態だった。

父からの教え「他人の話を素直に聞け」

 店舗の紋章といえば「家紋」を使うのが普通だった当時、祖父は丸に「K」を社章にした。光治の頭文字を取ったものだが、グローバル化が進んでいた当時の時代の空気を伝える。この社章は今も十全堂で使われている。

 2代目である佐野さんの父は薬科大学を卒業、薬剤師となった。商売も「薬局」の色彩を強めていった。戦後には製薬会社がつくる家庭薬の販売に加えて、化粧品なども置いた。父が40歳の時に待望の後継ぎとして生まれた佐野さんは、父同様、薬科大学に進んで薬剤師となった。ところが、大学を卒業すると父親は隠居。何も教わらないうちに店を任された。

 その際、ただひとつ言われたことは、「他人の話を素直に聞け」ということだった。父に言われ、地域でさまざまな商売をしていた先輩たちにいろいろ教わった。「素直に聞け、というのは、何か言い訳をすれば、他人は二度と教えてくれなくなるという意味だったんでしょう」と佐野さんは振り返る。

 1980年代前半になると大規模なスーパーなどが進出し、昔ながらの商店街は急速に廃れていった。佐野十全堂薬局の本店も、江戸時代からの街道筋にあり、戦前戦後は商店街として栄えた場所にある。「もはや小売り中心ではやっていけない」と考えた佐野さんは大きくギアチェンジをする。病院の処方箋を患者が持ち込む「調剤薬局」中心にシフトしたのだ。医療費が増え続ける中で、「医薬分業」が国の政策となり、病院内の薬局での処方から、院外の調剤薬局で薬を処方してもらうスタイルに変わっていった。その流れを先取りしたのだ。

 2000年代にはさらに大きな決断をする。02年に秦野市内に開院した「秦野赤十字病院」の前に土地を購入。1階に調剤薬局を置いた3階建ての新本社(南が丘店)の建設に踏み切ったのだ。「当然、大きな借金をするわけで、思い切った投資でした」と佐野さん。大規模な病院から出される処方箋は膨大だが、もちろんそれを独占できるわけではない。病院前には、日本最大級の調剤薬局チェーン、日本を代表するドラッグストアチェーンが店を開き、激しい競争に晒されている。

 それでも「同じ薬をもらうならば、地元の薬局からと考えてくださる患者さんも少なからずいます。皆さんから信頼されるかかりつけ薬局を目指します」と佐野さんは言う。調剤薬局に大きくシフトする一方で、市販薬の小売りが中心だった店舗は閉鎖、今は6店舗を運営する。時代に合わせて、業態も店の規模も数も変えてきたわけだ。

「地元に根ざした薬局」を標榜し続けてきたことも、佐野十全堂薬局が生き残ってきたもう一つの理由だ。長年、薬局に定休日を導入することができなかったが、父親が言っていた「病気に休みなどない」という言葉が引っかかっていたためだった。大衆薬ならば簡単に手に入るようになった今はもちろん定休日は設けている。常に地元の人たちが求めるサービスとは何かを考え続けることが重要だというわけだ。

「秦野産ジビエボーイスカウト

 佐野さん自身、地元を支えることに力を注いできた。今も秦野商工会議所の会頭として地域活性化に知恵を絞る。市の北部に連なる丹沢山系で増える野生のシカやイノシシを生かした「ジビエ料理」を地域の名産品にすべく旗を振っている。手打ち蕎麦に、鹿肉のそぼろを載せたメニューなどが次々に生まれるなど、「秦野産ジビエ」も徐々に浸透してきた。

 地元のボーイスカウトの指導者としても長年奉仕し、地域の子どもたちの育成に力を注いできた。もとは中学校3年生の時に担任の教師に勧められてボーイスカウトに入隊したのがきっかけで、野外活動だけでなく地域の奉仕活動などに熱中した。社会人になって十全堂を経営する一方で、ボーイスカウトの指導者として奉仕を続けてきた。神奈川県連盟の理事長などを務め、今は日本連盟の専務理事として財団運営にも携わる。

 そんな子どもの育成が、ひょんな格好で十全堂の経営にもつながっている。12年、65歳になるのを機に社長職を譲り、会長になった。専務として佐野さんを支えてきた弟がいるが、「もう一族で経営する時代ではないだろう」ということになり、社員の中から社長を選んだ。選ばれた現社長の大島正さんは、実はボーイスカウトの佐野さんの教え子だった人物なのだ。小学生年代の「カブスカウト」の隊長を佐野さんが務めていた時に入隊してきた。以来、大島さんもボーイスカウトに関わり続けている。「佐野隊長に憧れて薬剤師の道を選んだのです」と大島さんは笑う。

 果たして十全堂はこれからどう姿を変え生き残っていくのか。

 「これからは地元の医療・健康インフラを総合的に支えることが重要になると見ています。薬局は薬を売っていればそれで終わりという時代は終わりました」と佐野さんは語る。医師や看護師、介護士などと連携して、地元で生活する人たちの健康をサポートする拠点に佐野十全堂薬局がなっていく、というわけだ。すでに十全堂では居宅介護支援事業にも乗り出している。時代の変化を読みながら、地元のニーズに応えていく─。佐野さんや大島さんの思いが、これからも十全堂を地元に根ざした存在であり続けさせるに違いない。