最低賃金引き上げは「経済好循環」につながるか サービス業は「デフレモデル」からの脱却を

日経ビジネスオンラインに10月13日にアップされた『働き方の未来』の原稿です。オリジナルページ→http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/021900010/101200054/

最低賃金は5年間で13.2%上昇

 10月から「最低賃金」が引き上げられた。都道府県ごとに10月1日から14日にかけて新賃金が発効。それを下回る時給で雇用することは違法になった。全国の都道府県を加重平均すると823円から848円に25円引き上げられたことになる。

 そんな中で、全国で最も低い「全国最低時給」は737円。福岡県を除く九州各県と沖縄県高知県の8県が同額になった。昨年度は沖縄と宮崎の2県が714円で最低だったが、昨年度1円だけ高かった九州各県に追いつく格好になった。これに738円の青森、岩手、秋田、鳥取が続く。

 一方で、最低時給が最も高いのは東京都で、958円。これに神奈川の956円、大阪府の909円が続く。900円台が以上の3都府県で、800円台が首都圏や近畿・中部圏などの12道府県、700円台のうち750円以上が15県、749円以下が17県ということになった。

 最低賃金の引き上げは安倍晋三内閣の重点政策のひとつだ。第2次安倍内閣が発足する前の2012年の最低賃金は全国加重平均で749円だったが、毎年引き上げられて、5年で99円も上がった。率にすると13.2%の引き上げである。東京都に限れば、5年間で850円から958円に108円引き上げられた。

 安倍内閣閣議決定した成長戦略の中で、最低賃金の「年3%程度の引き上げ」を盛り込んでいる。このままのペースで引き上げが続けば、東京都の最低時給は、2年後の2019年度には1000円台に乗ることになる。

 安倍内閣が最低時給の引き上げにこだわって来たのは、企業業績の好転を給与の増加に結びつけ、さらに消費を押し上げようという「経済好循環」を実現するための1つの方策としてである。まだまだ「景気回復の実感は乏しい」という声が強い中で、給与の増加を後押ししようというのが「最低賃金」の引き上げなのだ。野党から出される「格差が拡大している」という批判を封じるうえでも、最低賃金の引き上げは有効というわけだ。

サービス業の有効求人倍率が高い

 最低賃金の引き上げには、中小企業経営者などから強い反発が出るのが普通だ。そうした中小企業経営者が支持母体のひとつである自民党が、最低賃金を毎年引き上げられるのはなぜか。人手不足が深刻化して、実際の時給がそれ以上に上昇しているからだ。いや、時給を引き上げても、なかなか人が集まらないというのが大都市圏の実情なのだ。

 厚生労働省が9月末に発表した8月の有効求人倍率は1.52倍と高水準が続いている。全都道府県で有効求人倍率は1倍を超え、6月以降は正社員の有効求人倍率も1倍を超えた。

 中でも有効求人倍率が高い業種、つまり人手不足が深刻な業種は、建設(4.02倍)、サービス(3.28倍)、輸送(2.30倍)、販売(2.04倍)などだ。サービス産業の中でも「介護サービス」は3.63倍、「接客・給仕」が3.92倍などと高くなっている。

 こうした有効求人倍率が飛び抜けて高い業種は、「生産性」が低い業種と重なっている。つまり、もともと給与水準が低く、なかなか人が集まらない、定着率の悪い業種ということになる。いわゆる3K(キツイ、キタナイ、キケン)職場が敬遠されているわけだ。労働時間も不規則だったり長時間だったりするケースが多い職業だ。

 一方で「一般事務」の有効求人倍率は0.34倍に過ぎない。勤務時間がはっきりしており、比較的待遇も良い。こうした仕事を求めている人が多いが、企業からの求人は少ない。つまり定着率が高く、なかなか人が辞めないので空きが出ないという見方もできる。

 サービス業は人手の有無と売り上げが直結しているケースが多い。人手がなければ商売にならないわけだ。圧倒的な人手不足の中で、賃金を引き上げてでも人材を確保することが不可欠になっている。最低賃金に近い水準で働く人は、こうした業種のパートやアルバイトに多いとみられる。最低賃金の引き上げに目立った反発が起きないのは、こうした業種での人手不足が深刻化していることの表れとも言える。

 人手不足による賃金の上昇は、こうしたサービス業に生産性向上を求めることになる。生産性というと1人の労働者がこなす作業量を増やしたり、働く時間を増やしたりすることがイメージされがちだが、今のサービス業に求められているのは「価格」の引き上げだ。サービスに見合う対価をきちんと得ることで収益を増やし、それを給与の引き上げに回すことが不可欠になっている。

 20年近く続いたデフレ経済の中で、販売価格がどんどん引き下げられ、サービスに携わる人たちの所得も減った。デフレ脱却にはこのスパイラルを断ち切ることが不可欠だ。それにはまず、サービスの対価として十分な金額を得ること、つまり値上げすることである。

労働分配率はようやく下げ止まった

 今年に入ってヤマト運輸が「値上げ」を打ち出したことに、世の中は理解を示した。必要なサービスには相応の対価を支払うべきだ、という認識が広がっているわけだ。つまり、良いサービスを提供していれば、多少の値上げは顧客が受け入れてくれる、そんなありがたい環境になっているのだ。

 デフレの時代は何しろ「安さ」が肝心だった。所得が増えないどころか減っていく中で、物価が下がることで生活が成り立っていたからだ。だが、物価が下がれば、いずれそれが企業収益の低下につながり、さらに給与の削減に繋がっていく。いわゆるデフレスパイラルだ。

 まだ道半ばとはいえ、デフレからは何とか脱出できそうな気配になってきた。今後も「安さを売り」にしたデフレ型のビジネスモデルを続けることは難しくなるだろう。安さを保つためにはサービスを切り詰めるしかないが、デフレ経済の中でそれも限界にきている。一方で、人件費を上げなければ人手が確保できず、そもそも商売が成り立たなくなる。経済がインフレ型に変わって来た場合、デフレモデルで勝ってきた商売のスタイルでは儲からないどころか、商売が成り立たなくなるわけだ。

 財務省が9月1日に発表した法人企業統計によると、2016年度に企業が生み出した「付加価値」298兆7974億円のうち、201兆8791億円が人件費に回っている。いわゆる労働分配率は67.5%だ。ここ5年ほど低下を続けてきたが、2016年度は2015年度と同率で、ようやく下げ止まった。企業が生み出した付加価値を給与に回す動きが統計に表れ始めたと見ることもできる。

 それでも企業の儲けのうち手元に残る「内部留保」は増え続けており、2016年度には406兆2348億円に達した。初めて400兆円を超え、過去最高である。4年間で100兆円も増えた。企業はまだまだ儲けを人材投資に回す余力があるわけだ。

 AI(人工知能)やロボットの進化によって、人々に求められている仕事の質が大きく変わりつつある。ロボットや機械に任せるのではなく、人間がやるべき仕事は何か、という事が大きな問題になってくる。逆に言えば、付加価値を多く生み出す仕事をする人には、より高い報酬を支払うことになるだろう。そうした人材投資に内部留保を振り向けることが、企業にとって不可欠になる。

 小池百合子東京都知事が率いる「希望の党」が掲げた選挙公約の中で、消費増税を凍結する代わりの財源として内部留保課税を検討する事を掲げた。税金を支払った後の「貯金」である内部留保にさらに税金をかけるというのは、人の懐に手を突っ込むようなもので、筋の良い政策とは言えない。

 だが、企業が前向きの投資をせず、利益を溜め込む姿勢を続ければ、政治に介入されるスキを与える事になりかねない。企業経営者は自らの意思でAI時代に向けた設備投資、人材投資を行っていくべきだろう。