もはや輸出国とはいえない日本に 円高は本当にマイナスなのか?

ビジネス情報月刊誌「エルネオス」7月号 連載 磯山友幸の≪生きてる経済解読≫
URL:http://www.elneos.co.jp/

編集部のご厚意で再掲させていただきます。

輸出倍増でも貿易黒字は減少
 為替の円高傾向がすっかり定着している。六月に入ってからも一㌦=七九円台を付ける局面があったが、新聞やテレビはそれほど大騒ぎしなかった。震災直後に一㌦=七六円という「最高値」を付けたため、もはや七九円台ではニュースにならないということだろうか。すっかり一㌦=八〇円という水準が定着した観がある。
 菅直人内閣のスタンスは「行過ぎた円高には断固たる措置を取る」というものだ。実際、就任して一年の間に二度も為替介入を行った。昨年九月に行った際は六年半ぶりということもあって、大きなニュースになった。財務省は長年、為替介入には懐疑的で、「効果はない」という立場を貫いてきた。菅政権が〝政治主導〟で介入を求めても長く抵抗していたのはこのためだ。
 為替市場の規模が大きくなった現在、政府が直接、為替市場に介入しても相場を思うように動かすことはできないというのが実態だ。昨年の円売りドル買い介入では二兆円が投じられたが、その後の中期的なトレンドを見る限り、介入の効果はなかったといえるだろう。
 震災直後の急激な円高ではG7が協調介入で合意したこともあり、短期的には市場関係者が驚くほど「よく効いた」介入だった。投じられた資金はわずか六千九百二十五億円で、少額で為替を大きく動かした。四月半ばには一㌦=八五円まで戻したのだから、九円も円安に動かしたことになる。だがこれも「この円高はいき過ぎているのではないか」と市場が警戒していたところに政府の行動が背中を押した格好となった例外的なものとみたほうがよさそうだ。実際、八〇円台の定着で、その効果も剝げ落ちてきた。やはり中期的には為替介入の効果はないということなのだろう。
 だが、日本政府はなぜ、効果がないといわれる為替に巨額の資金を投じてまで「円安」を志向するのだろうか。自国通貨が弱くなることを喜ぶというのは普通は論理的ではない。
 一般には日本は貿易立国だから円高は輸出産業に打撃を与えるというのが理由だとされてきた。たしかに戦後の日本は貿易黒字を稼ぐことで高度成長を成し遂げてきたのは間違いない。しかし、状況は大きく変わっている。
 国際収支を見れば、この変化は歴然としている。輸出額から輸入額を引いた貿易収支の黒字は一九九九年の十五兆円でピークを付け、その後、減少傾向にある。リーマン・ショック後に次いで、今回の震災でも輸出が激減し、月次ベースでは「貿易赤字」に転落した月もある。実は日本は、急速に「貿易で稼ぐ国」ではなくなっているのである。
 だが一方で、儲からない輸出を一生懸命増やしている。貿易黒字がピークだった九九年に輸出額は四十五兆円だったが、その後も増え続け、二〇〇七年には七十九兆円になった。何と一・八倍になったのである。薄利多売に勤しんできたわけだ。
 貿易黒字が小さくなる一方で、別の稼ぎ頭が出てきた。「所得収支」と呼ばれるものだ。海外からの配当金や給与が含まれる。〇五年を境に「貿易収支」を「資本収支」が上回り、この傾向は今も変わっていない。一〇年の資本収支は十一兆七千億円。これに対して貿易収支は七兆九千億円にすぎない。
 要は、すでに日本は単純にモノを輸出して黒字を稼ぐ国ではなくなっているということだ。海外へどんどん投資をして、そのリターンである配当を享受する国になってきたのだ。
 五月半ば、日本の医薬品最大手である武田薬品工業が、スイスの製薬大手ナイコメッドを九十六億ユーロ(約一兆一千億円)で買収することで、大株主の投資ファンドと合意した。こうした大型の買収に踏み切れるのも円高が追い風になっているのは間違いない。企業法務を専門とする大手法律事務所の弁護士によると、「大震災以降は止まっていた企業の買収案件が五月から再び動き始めている」としている。案件の多くが日本企業による海外企業買収で、円高のメリットを享受しようという戦略がうかがえる。

円高が進めばデフレが止まる
 個人の生活を考えれば、円高がマイナスではないことはすぐに理解できる。ガソリン価格が象徴的だろう。〇八年に原油価格が一バレル=一四〇㌦に急騰した時、末端のガソリン価格が急上昇したことを読者もご記憶だろう。一時五〇㌦まで下がっていた原油は再び上昇、一〇〇㌦を突破した。仮に今の為替が〇五年当時の一㌦=一二〇円だったら、ガソリンは一㍑=二〇〇円を軽く超えていただろう。
 東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響で、原発の多くが運転停止になっている。原子力から火力発電にウエートがシフトするだけで、各電力会社とも数千億円単位の燃料代増加に結びつく。為替相場が一㌦=八〇円から一二〇円になれば、当然ながら原油代の支払いも一・五倍になるわけだ。もはや、このタイミングで政府は「円安志向」だと声高に言うわけにはいかなくなっているのだ。
 前号の資金還流と裏表の話だが、円高になれば海外からの投資が増えるというメリットもある。通貨が強くなり、成長する期待のある国には資金が集まるからだ。エコノミストの三國陽夫氏が著書『黒字亡国』で主張しているように、円高になれば海外からの資金が国内を流通するようになり、それによって内需が振興するという指摘もある。つまり、ここ十数年にわたって日本が悩まされてきたデフレが止まるというのだ。
 もちろん、成長を求めず、旧来型の輸出企業として命脈を保っている老舗企業にとっては今も円高は死活問題だろう。そうした守旧派の声がより政府に届きやすい日本の仕組みも、政府の盲目的な円安信仰につながっているように思う。