【高論卓説】東芝は本当に反省しているのか 過少な賠償請求…「不正なし」なお強調

巨額の粉飾決算に揺れた東芝は本当に反省しているのでしょうか。11月10日付けのフジサンケイビジネスアイに掲載された原稿です。ウェブにも掲載されています→http://www.sankeibiz.jp/business/news/151110/bsg1511100500003-n1.htm


 東芝は7日、田中久雄・前社長ら歴代3人の社長と財務担当役員2人の計5人に対して、合計3億円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしたと発表した。不正会計に関与して会社に損害を与えたとして、株主から訴訟を起こすよう求められていた。

 一定のけじめをつけたと評価する声もある一方で、2248億円に及んだ巨額粉飾の代償をわずか3億円としたことに、「過少だ」という批判も上がっている。

 発表文を読んで分かるのは東芝が今回の問題を一向に反省していないということだ。金融庁東証までもが「不正会計」という言葉を使っている中で、いまだに「不適切会計」と表現し続けている。あくまで「不正」は働いていない、という姿勢なのだ。

 賠償を求める理由も、取締役としての「善管注意義務違反」だとしている。善良なる管理者としての注意を怠ったというもの。あくまで善良であることが前提の条文で、違法行為を行っていた場合に適用されるものではない。発表文の中でも「任務懈怠(けたい)」という言葉を使っている。つまり、ここでも5人は意図的な不正は行っていない、と主張しているのだ。

 賠償請求額を3億円としたのも、「犯罪ではない」という前提に立っている。任務懈怠(けたい)によって「法的観点から相当因果関係が認められる範囲内の損害の一部」ということで、粉飾した過去の決算を訂正するために要した監査法人への支払い報酬や、東証から課された上場契約違約金9120万円などに限っている。しかも、「回収可能性等も勘案した額」としているのだ。

 5人で3億円といえば、庶民感覚では払える限度額に近い感じもするだろう。だが、提訴された一人である西田厚聡・元会長は、粉飾で利益をかさ上げしていた2010年3月期から2014年3月期の間だけでも6億3500万円の役員報酬を手にしている。利益をかさ上げしなければ、そんなに多額の役員報酬を得ることは不可能だった可能性が高く、本来なら全額返済してもいいはずだ。

 同じく訴えられた一人である佐々木則夫・元副会長も、開示されている2012年3月期からの3年間だけで3億2800万円の役員報酬を得ていた。田中前社長も開示されている2014年3月期1年間だけで1億1100万円を得た。だが、こうした報酬は今回の損害賠償額の算定には一切含まれていない。

 会社が損害賠償訴訟を起こしたのも、不正会計の反省に立って自ら率先して行ったものではない。株主から請求されたからで、放っておけば株主が会社に代わって訴訟を起こす株主代表訴訟に発展していた。その期限が迫っていたのだ。会社が元役員を訴える当事者になることで、当然、「なれ合い」訴訟になることが懸念される。

 もう一つ驚いたのは、米国で起きている集団訴訟への対応だ。米国では東芝ADR米国預託証券)が発行され、東芝株の代わりに売買されてきた。ところが東芝は今回、「当社は当該米国預託証券の発行に関与しておりません」とし、「米国証券関連法令の適用がない」ことを理由に訴訟の棄却を求めていくとしたのだ。

 実は東芝は日本の会計基準を使っていない。金融庁が特例として認めてきた制度を利用して、米国会計基準で決算書を作ってきたのだ。多くの株主はADRの発行によって米当局の監督を受けていると思ってきた。それが手のひらを返したように、米国の法律は適用されないと言い始めたのだ。ADR東芝の意思で発行したのではないと言うのなら、何のために米国基準を使ってきたのか。日本の当局の縛りから逃れ、粉飾決算を容易にするためだったとでも言うのだろうか。

 今回の発表を、証券市場が休みである土曜日に行ったことにもアナリストなどから批判されている。株主の方を向いていない、というのである。

 巨額の粉飾によって東芝の信頼は大きく揺らぎ、その余波はまだ収まっていない。今回、同時に発表した2015年9月中間決算は、本業のもうけを示す連結営業損益が904億円の赤字(前年同期は1378億円の黒字)になった。信頼を取り戻し、経営を立て直すには、まず、過去の不正をきちんと見据えて反省し、それを許してきた企業風土と決別することが第一歩のはずだ。

 東証では東芝株は現在、「特設注意市場銘柄」に指定されている。「内部管理体制等において深刻な問題を抱えており(中略)改善の必要性が高いと認められる」というのが理由だ。改善されたと東証が認めなければ上場廃止になる可能性はまだ残っている。東芝は本当に反省しているのか。それが問われることになる。