学部新設や定員はなぜ「利権」になるのか 加計学園問題を機に考え直すべきこと

日経ビジネスオンラインに7月7日にアップされた原稿です。オリジナルページ→http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/238117/070600054/

なぜ「獣医学部」の新設が必要だったのか
 加計学園獣医学部新設を巡る問題で、野党は安倍晋三首相が友人の加計孝太郎理事長に頼まれて便宜を図ったのではないかと追及している。文部科学省の前の次官だった前川喜平氏は記者会見で「行政が歪められた」と述べ、学部新設が認められた過程で何らかの政治的圧力が加わったことを示唆した。

 一方で、獣医学部新設を認めた国家戦略特区諮問会議の民間議員たちは会見を開いて、決定プロセスには「一点の曇りもなかった」とした。しかも、新設を加計学園1校に絞ったのは、獣医学部の増加に強く抵抗していた獣医師会に配慮して妥協したもので、加計学園に便宜を図るためではなかった、という。

 果たして、この加計学園問題は、政治が民間に便宜を図った「大疑獄事件」なのだろうか。そもそも獣医学部の新設というのは、政治家が「口きき」するほど、オイシイ話だったのか。

 50年間にわたって獣医学部が新設されなかったことについて、文部科学省の主張は「獣医師は足りている」というものだった。これは日本獣医師会の主張をそのまま受け入れたものと言える。

 獣医師が足りているのだとすれば、獣医学部を新設して獣医が増えた場合、職に就けない人が出てくるはずだ。おカネをかけて入学しても獣医として働く道が開けないのであれば、獣医学部を新設しても学生が集まらない。そんな中で、加計学園はなぜ獣医学部を新設したかったのか。

 全国の大学がこぞって設置した「ロースクール」は、弁護士過多が指摘されて合格者が絞り込まれる中で、どんどん姿を消している。経営的にはロースクール新設は失敗だったということになる。獣医師も足りているというのが本当ならば、加計学園の学部新設は、経営的にリスクの大きい判断だということになる。

 一方で、獣医師は不足している、という見方も根強い。国家戦略特区諮問会議で獣医学部の新設容認の意見を述べていた坂根正弘コマツ相談役は、鳥インフルエンザなど動物と人間の双方にかかわる病気が広がる中で、日本に獣医師が少ないことが、創薬などの力を落としているとして問題視した。動物と人にまたがる生物分野の医療研究をするには、獣医師を増やす必要があるとしたのだ。つまり、獣医師にはまだまだマーケットがある、と指摘したわけだ。

 どちらの見方が正しいのか。本来ならば、市場原理に任せれば良い話だ。ニーズがないのに学部を増やせば、学生が集まらない。しかも新設する場所は学生人口の多い大都市圏ではなく愛媛県今治市だ。文部科学省や獣医師会が目くじらをたてなくても、早晩行き詰まる。

国家資格は一種の「ギルド」

 だが、文部科学省や獣医師会は、国家戦略特区諮問会議が求めた「獣医師は足りている」という論拠について、最後までデータで示せなかった、とされる。ということは、十分なニーズがあることは分かっているが、それを既存の獣医師で独占し続けたいということだったのか。

 あるいは、新規参入が増えると、競争が働いて、質の悪い医師が排除されることになりかねない、という構図を恐れたのか。

 獣医師に限らず国家資格は常に、「ギルド」つまり職業団体の既得権を守る機能を持ち続けてきた。獣医師だけでなく、医師にせよ、弁護士にせよ、公認会計士にせよ、合格者数を増やすとなると、業界団体が徹底的に反対した。資格試験は、その職業に就くための最低ラインというよりも、その資格をとったら必ず食べていけるという一種の生活保障を示していた。

 だが、社会が大きく変化する中で、国家資格が生活保障のままでは、新しい分野に挑戦する「余剰な」資格保持者が生まれない。2000年代に入って司法試験や公認会計士試験の合格者を政策的に大幅に増やしたのは、そうした考え方からだった。

 結果、企業内で働く弁護士が増えるなど、弁護士の仕事の領域は大きく増えたが、一方で競争が激しくなり食べていけなくなる弁護士も生まれた。

 医師や獣医師は、頑なに増員を拒んできた。獣医師だけでなく、医師も十分に足りている、というのが文部科学省厚生労働省の主張だった。医学部も2017年に38年ぶりに新設が認められたが、これも加計学園同様、国家戦略特区を使ったもので、千葉県成田市に生まれた。医学部も獣医学部同様1校だけの新設が認められたのだが、なぜかこちらは問題視されていない。

 医学部を新設した国際医療福祉大学は長年医学部新設を求め続けてきた大学で、これも政治的なリーダーシップがなければ実現しなかったものだ。

 医学部にせよ、獣医学部にせよ、どんな学部を新設し、どんな人材を育てるかは、本来、大学自身が考えるべきことだろう。ところが日本の場合、すべて文部科学省の許認可に握られている。設置認可どころか、どの学部に何人の学生を受け入れるかという「定員」もすべて文部科学省が決め、それを守るように指導している。それが前川前次官の言う「行政」なのだ。

 「いやあ、うちのような三流大学でも、今年は入学者が増えて、一気に経営が安定しました」と大手新聞社を退職後に大学に再就職した教授は話す。「ひとえに文部科学省のおかげです」というのだ。

「定員」を厳格化する文部科学省

 文部科学省は2015年秋、「定員」を厳格化する方針を打ち出した。収容定員8000人以上の大規模大学は入学定員充足率が1.2倍以上、それ以外の大学は1.3倍以上になった場合、私学助成金が一切もらえなくなる。2019年度以降は、入学定員充足率が0.95倍でも1.0倍の場合と私学助成が同額になるよう「インセンティブ」を設けることになっている。つまり、定員を大きく超えている大学には、「助成金を出さないぞ」と脅し、定員を抑えたところに助成金を上乗せするというわけだ。

 なぜ、文部科学省はそこまで口を出すのか。教育の質を守るというのが大義名分だが、要は大学を潰さないために定員を調整しているのだ。人気私立大学の定員が厳格化されたことで、人気の薄い大学にも学生が流れ、経営的に助かったと言っているわけだ。

 さらにオマケがある。そうした入学定員の管理や文部科学省との折衝は、“三流大学”の職員ではなかなか難しい。結局は文部科学省の薦めにしたがって天下りを受け入れているのだ。

 国からの助成金などもらわず、文部科学省の指導など無視をしたらどうか、と思うだろう。もともと政府からの教育の独立性は重要である。

 日本国憲法の89条は次のように定めている。

 「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」

 戦前の国家が教育に強く介入した反省もあり、国が「公の支配に属しない」教育に公金を支出することを憲法は禁じているのだが、いつの間にか解釈改憲で、大半の私立大学は助成金を国からもらっている。私立学校も国の支配に属しているというのが政府の解釈で、助成金は合憲だとされている。「学の独立」というのは建前で、大学は助成金によって国に首根っこを押さえられているのである。

 もはや、助成金なしに経営を行おうという気概を持つ大学はない。というのも金額が並大抵ではないからだ。2016年度の大学別私学助成のトップは「学の独立」を唱えてきたはずの早稲田大学で、総額90億5189万円。これに東海大学の88億8323万円、慶応義塾大学の87億3408万円と続く。大学には603校中570校に合計2968億円を助成している。

 不交付校が33あるが、未完成の大学や募集を停止しているところ、他の省庁の補助金をもらっているところがあり、申請をせずに受け取っていない大学はわずか17校だ。ほとんどの大学が当たり前のように国から助成金を受け取っている。「公の支配」に下るわけだから、監督官庁に頭が上がらないのは当然だ。

 大学に対して「強い権力」を持つ文部科学省が50年にわたって新設を認めなかった獣医学部が、それほどまでの「利権」だというのなら、そんな利権を一官庁に握らせておくことが正常なのか。助成金を使って大学に定員を守らせる「行政」が、本当に学問をしたい国民のためになっているのか、日本の将来の人材育成に役立っているのか。もう一度、私立大学のあり方について、抜本的に議論をするべきではないか。