「幸せとは何か」ブータン王国レポート(下) 「国民総幸福度」委員会トップのカルマ・ツェテーム長官に聞く 「GNHを支える4つの柱」

ちょっと間があいてしまいましたが、ブータンレポートの(下)が講談社「現代ビジネス」にアップされました。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/11947 
編集部のご厚意で、以下にも再掲させていただきます。
(上)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/7716 ブログの6月8日に再掲
(中)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/8616 ブログの6月18日に再掲
もお読みください。


 ブータンの首都ティンプーの町の北側にある城に、ブータン政府の中枢部はあった。ゾンと呼ばれる城はブータン国内の町々にあるが、首都だけあってその規模は大きい。仏教国ならではの様式だろうか。7つの仏塔様の建物が回廊で結ばれ、白い城壁の上に乗っている。低層の屋根はエンジで、高層は黄色。黄色い屋根は政庁か寺院にしか許されないそうだ。

 その白い城壁の下を歩いていくと左手に城内へと続く大きな石段があった。南東の角の塔には第五代ワンチュク国王の執務室があるという。中庭から東側の回廊部分に入り木製の急な階段を登った奥に「長官」の部屋はあった。

 Gross National Happiness Commission(GNH委員会)。ブータンが掲げるGNH(国民総幸福度)の考え方に基づいた政策を立案しているブータン政府の司令塔だ。日本語では国家計画委員会と訳されることもある。そのトップであるカルマ・ツェテーム長官を訪ねた。

指標のはずのGDPや株価が目的化する
 ブータンの民族衣装であるゴに身を包んだツェテーム氏は腰から剣を下げている。ダショーと呼ばれる貴族は城内では帯剣が義務なのだという。

 ツェテーム長官に聞きたかったのは、ブータンがなぜGNHにたどり着いたのか。世界各国が指標とするGNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)についてはどう考えているのか、という点だった。

 このレポートの前回までにも触れたように、ブータンには今、猛烈な勢いで外部からヒト・モノ・カネが流れ込みつつある。モータリゼーションが急速に進み、パソコンや液晶テレビが一般の家庭の中にも入り始め、誰もが携帯電話を持つようになった。

 だからこそ、経済成長とどう向き合うのか、GDPをどう考えるのか。国民の幸福とは何なのかが改めて問い直されているに違いないと考えたのだ。

 「失業率を低く抑え、良好なGDP成長率を保つことはてとても重要だ」と長官は言った。「だが経済発展と同等に社会的、文化的発展も重視しているのがわれわれが少し違うところだ」と付け加えた。

 ブータンが国家の政策決定にGNHの考え方を取り入れたのは1970年代のこと。先代の第四代ワンチュク国王が、究極の目的とは人々の幸せだが、GDP株価指数といった数字自体が目的化し、本来の大きな絵を忘れているのではないか、という疑問を呈したことから始まったという。物質的に豊かになることが必ずしも精神的な幸福には結びつかない、というわけだ。

 質問にGDPを持ち出したのには、「貧しくても幸せ」であることを政府が強要しているのではないか、という疑念もあった。だから、経済成長も大事だという話を聞いて、少し安心した気持ちになった。要はGDPなど数字に表れる経済成長と、数字での把握が難しい国民の幸福感をどうやって両立させ、バランスをとるか、というのがブータン流ということなのだ。

GNHを支える「良いガバナンス」

 現在、GNHでは4つの柱を掲げている。まず第一が、持続可能で公平な社会開発。持続可能性はいまや世界の先進国の最大の課題になっている。人口70万人の小国経済に無秩序に投資資金が流れ込めばひとたまりもない。成長のスピードをどうコントロールするかは大きな試練だろう。

 2番目の柱は「文化と伝統を守ること」。公務員や学生などに民族衣装のゴ(男性用)とキラ(女性用)の着用を義務付け、無秩序な外国文化の流入を回避しようとしている。また、建物を新築する場合もブータンの伝統的な装飾を義務付けるなど文化を守るための規制には積極的だ。国民の間には反発もあるというが、建物の屋根が緑色に統一されているため、町の遠景は落ち着いて美しい。高層ビルが無秩序に建つ日本の古都とは大違いだ。

 3番目の柱は「環境を守る」だ。環境破壊型の開発は進めないという意味で、1番目の柱と共通する。これも産業革命以降、世界の先進国が直面してきた難問だ。経済が成長すれば、環境破壊が付いてくる。ブータンではGDPに占める製造業の割合はまだ8%に過ぎない。今後、国民経済が成長し、製造業が発達してきた段階でどう環境保護と両立させていくのか。

 柱の4番目は「良いガバナンス(統治)」だ。ツェテーム長官は、「良いガバナンスがなければ何事も実行に移せない」と言う。不正が横行し、汚職が蔓延しているようでは、まともに政策は実行できないというわけだ。ブータンでは2008年になってようやく総選挙が行われ国民議会が開設された。王制から立憲君主制へと変わったばかりだ。それだけに、国民に政府の政策を理解してもらい、信頼されることは何よりも大事だというわけである。

 GNH委員会では2年前からブータン国中のあらゆる職業の人たちをサンプリングして国民生活の実態調査・意識調査を始めた。調査項目は72項目に及ぶ。国民の生活実態を知り、何を求めているかを理解することで、GNHの思想をより具体的な政策に落とし込んでいこうというのが狙いだ。調査は2年ごとに行うという。

都市間競争に「生活の質」で勝負するブランド戦略
 そこには国民の声を率直に聞きながら政策を決めていくという、当たり前だがなかなか存在しない政治家・官僚の真摯な姿勢がある。ツェテーム長官は話していて実直な好人物であることが分かる。政府の高級官僚はほとんどが欧米先進国の一流大学で学んだエリートだ。彼らが自国ブータンの国民の幸せを真剣に追求しようとしている熱意が伝わってくる。

 「GNHに着目した開発とGDPに着目した開発の違いは、生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)に対する考え方の違いだ」とツェテーム長官は言う。GNHではより「生活の質」に着目し、重視するというのだ。

 今、世界の先進国の間では都市間競争が繰り広げられている。ロンドンとパリとニューヨークが企業や人材の誘致に力を注ぐ。その際の尺度としてしばしば語られるのが「クオリティ・オブ・ライフ」だ。

 ブータンが掲げるGNHは、経済発展の「量」ではなく「質」に重点を置いていると見るべきだろう。質の高さを競う一種の「ブランド戦略」だ。しかも、経済発展を潜り抜けた先進国がようやくたどり着いた視点を先取りしている。

 物質的に飽和し、何事にも便利さが追求された日本からブータンを訪れると、まだまだ貧しさが目に付き、「生活の質が高い」と言い切ることは難しい。

 だが、世界の先進国が掲げる先端的な尺度を国是として国づくりに取り組むブータンが、将来達成するであろう「幸せ国」がどんなものになるのか。幸せの王国を再訪する日を楽しみにしたい。

おわり

謝辞 末筆ながらインタビューのアレンジなどを快く引き受けていただいた御手洗瑞子・ブータン政府首相顧問と、彼女をご紹介いただいた日経BP社の柳瀬博一氏に心からお礼を申し上げます。このお二人の水先案内がなければ、おそらくブータンに行こうとは考えなかったと思います。