宗教法人や学校法人が財産運用するのは好ましくないのか?日本もそろそろ資産大国から運用大国へ!GPIFの運用資産を新分野への投資などに回せるよう制度改革すべきか?

デフレが20年近くも続いたことで、インフレを実感として知っている世代が少数派になっています。年金資産の運用などで、「安全第一で国債に投資しておくのが国民の財産を守ること」という主張は、そんなデフレ社会の結果でしょう。インフレ経済では銀行預金や国債に資産を置いておくことが、資産の目減りをもたらすという感覚がどうも理解できないわけです。数百年続く欧州のプライベートバンクの狙いは戦争やインフレから個人の財産を守ること。日本に本物のプライベートバンクが存在しないのも、そうしたリスクを感じる機会がなかったからかもしれません。現代ビジネスに書いた拙稿を編集部のご厚意で以下に転載します。オリジナルページ→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35670


 宗教法人高野山真言宗(総本山・金剛峯寺和歌山県高野町)で、資産運用の失敗を理由にした人事騒動の末に、宗派の執行機関である「内局」のトップの庄野光昭・宗務総長が4月末、辞任に追い込まれた。2月末に宗派の議会に当たる「宗会」が宗務総長への不信任案を可決、これを受けて宗務総長が宗会を解散していた。

 騒動のきっかけは同宗の資産運用で多額の損失が出ているとの批判が内部から噴出したこと。新聞各紙は「お布施など約30億円を運用し、高リスクの金融商品も購入していた」と相次いで報じた。あたかも善意のおカネを博打に回していたかのような論調が目立った。「(1200年前に高野山を開いた)弘法大師も泣いている」といった声がネット上にも溢れた。

 結局は混乱の責任を取って宗務総長は辞任したが、その際、公表した運用内容などを見る限り、宗教法人や傘下の学校法人、財団法人の資産運用としてはごく普通の投資に見える。運用商品で報じられているのは日経平均リンク債や豪ドル建てMMF南アフリカランド債など、高リスクとは言い切れない商品が多い。

高野山真言宗では運用実態について外部委員会に調査させた。その報告書では3月末で57億9000万円の運用残があり、15億3000万円の含み損が発生していると指摘しているものの、「法人や運用担当の責任を問うことは適切でない」と強調している、という。

真言宗内の人事のゴタゴタは置くとして、この問題は宗教法人や学校法人、財団法人などの資産運用のあり方について一石を投じている。日本社会には、「貴重な財産をリスクに晒すべきではない」という意見が根強くある。このため、宗教法人や学校法人が運用に「失敗」すると大きな社会問題になることが多い。

 とくにリーマンショックの後には多くの大学や財団で運用の「失敗」が表面化した。当時報じられた損失は駒澤大学が154億円、慶応義塾大学が535億円の含み損、立正大学が148億円の含み損といった具合だった。駒澤大学では理事長が解任される事態にまで発展した。全国の大学や財団などが多かれ少なかれリーマンショックの打撃を受けた。

 もちろん、運用体制が不備なまま、出入りの証券会社のセールス・トークに乗って金融商品を買っているようなケースもあっただろう。だが、大半の場合、資産運用については理事会など組織的な議決を経て投資先や運用委託先の配分が決められている。ところが、ひとたび損失が出ると「責任問題」に発展するのだ。

日本では損失が生じると「失敗」として社会的に糾弾される

 では、宗教法人や学校法人が財産運用するのは好ましくないのだろうか。あるいは、一切リスクを取らず、現金や預金のまま保管しておくことが望ましいのか。

 欧米では教会や大学の基金は、有力な投資家として大きな存在になっている。米国の大学は基金の運用を活発に行うことで、運営経費をねん出していることは有名だ。また、あまり知られていないが、欧州では教会が有力な「投資家」として資本市場に大きな影響を与えている。つまり、善意のおカネを預かった以上、それを有効に活用して、その利子で様々な活動を行う、というのが基礎になっているのだ。

 教会の場合、その投資行動が公にされることは少ない。だが、欧州で広がったSRI(社会的責任投資)の源流に「教会マネー」があることは間違いない。教会が社会的に問題だとみなす業種、例えばタバコ産業や軍需産業に関連した企業を投資対象から除外するような投資行動が取られているのだ。教会の多くは国や地域ごとにファンドを持ち、そこの銀行出身者などの運用・管理の責任者を置いて資産運用している。実際の運用はプライベートバンクインベストメントバンクなどに委託しているケースも多い。当然、そこには「成功」もあれば「失敗」もある。つまり、利益を生むこともあれば、損失が生じることもあるのだ。

 ところが日本の場合、損失が生じると運用の「失敗」としてすぐさま断罪される傾向が強い。リーマンショック直後の場合、損失が生じても大半は(損が確定していない)含み損の場合が多かった。株価や債券の価格が戻れば損失は小さくなるものもかなりあった。それでも「失敗」として社会的に糾弾されたのだ。

 するとどうなるか。運用の責任者や法人の運営者は、「失敗」を回避することだけを考えるようになる。一切リスクをとらず、定期預金にしておくか、日本国債での運用に限るのだ。定期預金は今ではほとんど金利が付かないが、銀行が潰れない限りは元本が毀損することはない。日本国債なら多くの銀行や政府系ファンドが保有しているから、万が一損をしても、「高いリスクを取っていた」と非難されることはない。つまり、まったくリスクを取らない方が運用責任者にとっては楽なのだ。日本の場合、低金利を理由にほとんど運用収益が上がらなくても、そこで責任を問われることはない。資産運用の世界がそんなムード一色になっているのだ。

 果たして、それでいいのだろうか。20年近くにわたって続いたデフレによって、銀行預金にそのまま置いておいても、現金の価値が目減りすることはなかった。国債投資が結果としては最高の投資になったのも事実だ。だがそれは、経済状態はデフレだったためだ。

アベノミクスによって、今後、緩やかにインフレが進むと期待されている。そんな中で、これまでと同じ定期預金や国債投資が「最も安全な投資」であり続けるのだろうか。多くの日本人はインフレをまったく忘れてしまっているが、インフレになれば当然のこととして現金の価値は下落する。現金で置いておけば、その分、価値は目減りするのだ。それでは宗教法人や学校法人に寄せられた「善意の資金」は目減りする一方ということになる。景気が好転して金利が上昇すれば、国債価格は下落することになる。必ずしも安全な運用方法とは言えなくなる可能性が出て来るのだ。

安全第一ばかりではなく、成長するためのリスクも必要か?
 こうしたインフレや経済変動、国家リスクなどを克服するために、運用のプロがいる。ところが日本の場合、過度な国債運用への依存が続いていたために、なかなか運用のプロが育っていない。また、リスクを限定したうえで一定以上の利益を追求するような新しいタイプの金融商品の開発も後手に回っている。こうした金融商品には「デリバティブ」(金融派生商品)が使われるが、デリバティブと言うとすべてが高リスク商品のように扱われる。そんな風潮が蔓延しているのだ。

 そんな社会的な風潮を見直す議論が国レベルで始まろうとしている。GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用体制のあり方を巡る議論だ。GPIFは111兆円余りの運用資産を持つ、世界一の機関投資家だ。自民党の経済再生本部の議論の中で、このGPIFの運用資産の一部をベンチャー投資などに回せるよう制度改革すべきだという声が出た。いわば、安全第一の運用ばかりではなく、日本全体が長期に成長するための新分野に年金資金を投資せよ、というわけだ。日本経済全体が成長すれば年金資産も大きく増えるので、最終的には年金加入者、つまりは国民のプラスになるという論理だ。

 GPIFの運用資産111兆円の投資先の内訳をみると、昨年12月末現在で、日本国債を中心とする国内債券が60%、他は国内株式13%、外国株式13%、外国債券10%弱といった具合だ。圧倒的に国内債に重心がかかっている。

 こうした自民党の議論にGPIFを管轄する厚生労働省は真っ向から反発している。年金加入者、つまりは国民の財産を守ることが第一で、高いリスクを取るのは馴染まないというのである。前述の日本社会のリスク忌避のムードそのものである。厚労省の役人からすれば、運用がうまくいっている時はいいが、含み損を抱えれば、政治家からもメディアからも叩かれる。ならば国債など「安全第一」の運用にしておく方が無難だ、というわけだ。

 半ば神学論争である。111兆円ある資産の運用利回りを1%引き上げることができるだけで1兆円以上、果実が増えることになる。そうなれば安定的な年金の支給や制度の維持に大きくプラスになるのは間違いない。かといってリスクをとって「失敗」した際には、税金などでの穴埋めが必要になる。

 日本が資産大国と言われて久しい。にもかかわらず、手元にある資産を生かし、果実を生んでいこうという意欲も知恵も希薄だった。そろそろ運用大国と呼ばれるだけの力を付けてもいい頃だろう。そのためには「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」風土を改めていくことが必要ではないか。