「年金ガバナンス」整備で加入者の利益を最大化 年金基金に「スチュワードシップ・コード」導入へ

日経ビジネスオンラインに11月18日にアップされた原稿です→http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/238117/111700035/?P=1

企業年金基金」は従業員の方を向いているか

 ビジネスマンが加入している「企業年金基金」は誰を向いて資産運用しているのだろうか。基金の理事長や常務理事は会社の総務系や財務系の役員や部長OBというケースが多いが、彼らは年金資産の「受益者」である従業員(OB含む)の方を向いて運用会社の選択などを行っているか。同じグループだとか、取引先だということで、「会社の利益」を優先していないか──。

 うちの基金は、加入者の利益を最優先して運用委託先や運用方針を決めている、と胸を張って言える企業年金基金は多くない。旧財閥系の企業だと大半がグループの信託銀行や運用会社に年金資産の運用を任せているのが実態だ。

スチュワードシップ・コード」を年金基金に受け入れさせる

 そんな旧弊をぶち壊す動きが始まった。企業年金基金機関投資家向けの行動指針「スチュワードシップ・コード」を受け入れさせようという検討が進んでいる。

 スチュワードシップ・コードアベノミクスが掲げた「コーポレートガバナンス強化」の一環として、2014年春に導入されたもので、「あるべき機関投資家の姿」を示している。生命保険会社などが資産運用する場合に、なぜその会社の株式に投資するのかきちんと説明でき、それが保険契約者の利益を最大化することにつなげることが求められた。このスチュワードシップ・コードについて、年金基金にも受け入れを宣言させようというのだ。

 今でも基金がコードを自主的に受け入れるのは自由だ。企業年金連合会の調べでは、今年7月28日現在で、三菱東京UFJ銀行企業年金基金など金融機関の6基金と、企業年金連合会、セコム企業年金基金の8つがコードを受け入れている。わずか8つ。一般事業会社では何とセコムの基金ひとつだけなのである。

年金基金にガバナンスをきかせることが必須

 年金基金が自分の資産で上場企業の株式を買う場合、多くのケースでは間に信託銀行や保険会社、運用会社などが入る。間に入る運用会社はほとんどがスチュワードシップ・コードを受け入れており、年金基金の利益が最大化するよう運用を行うようになった。これによって、信託銀行や保険会社が「モノ言う株主」に変わり始め、上場企業の株主総会での議決権行使などで「基金の利益」を考えるようになった。

 従来の白紙委任状ではなく、時には人事案などにもNOを付きつけるようになり始めており、企業経営へのプレッシャーになってきた。つまり、ガバナンスがききはじめたのだ。

 ところが、年金基金が「加入者の利益」ではなく「会社の利益」を重視してしまうと、投資先企業の株主総会での議決で従来通り白紙委任することになる。例えば、三菱グループの年金基金が、三菱グループの運用会社を使って、他の三菱グループの企業の株を取得しているケースでは、株主総会では会社側の提案に自動的に賛成することになりかねない。つまり、ガバナンスがきかない状態になってしまうわけだ。

 そうした「穴」をふさぐうえでも、年金基金がスチュワードシップを受け入れることが不可欠になっている。

塩崎厚労相の指示で一文を追加

 実は、今年6月2日に閣議決定した成長戦略「日本再興戦略2016」の中に、「企業年金等の改善」として、次のような一文が盛り込まれている。

 「年金基金等において、コードの受け入れの促進など、コーポレートガバナンスの実効性の向上に向けた取組を通じて、加入者等の老後所得の充実を図る」

 関係者によるとこの一文は、再興戦略を取りまとめる最終段階で塩崎恭久厚生労働大臣の鶴の一声で書き加えられたのだという。

 塩崎氏は政界ではおそらくもっともコーポレートガバナンスに詳しい人物で、厚労相に就く前は自民党政調会長代理として再興戦略の素案を作ってきた。社外取締役の実質義務付けやコーポレートガバナンス・コードの導入などを主導したのも塩崎氏。改革派として知られる森信親・金融庁長官とのパイプも太い。そんな塩崎大臣の指示を厚労省は無視できるはずはない。

 厚労省は9月末に「スチュワードシップ検討会」という会合を設置した。北川哲雄・青山学院大学教授を座長に、委員は11人。それに厚生労働省の諏訪園健司年金担当審議官ら担当者、企業年金連合会の運用執行理事ら担当者が加わり、オブザーバーとして金融庁の田原泰雅企業開示課長が参加している。10月5日に初会合を開いた。

 座長を含む委員11人のうち6人が企業年金基金の理事。JTBJCB、全国情報サービス産業、DIC、パナソニック、日立の基金が名を連ねている。加えて3人が基金から運用を受託する金融機関で、三菱UFJ信託銀行第一生命保険大和住銀投信投資顧問から幹部が加わった。残り2人は学者で、ひとりは座長の北川教授、もうひとりは高崎経済大学の水口剛教授である。

委員名簿の非公開は「年金法案」や「基金」への配慮か

 ちなみに、なぜかこの委員名簿は対外非公開ということになっている。役所の審議会は公開が原則だが、厚生労働省のホームページには会議の概要なども掲載されていない。

 「特段、秘密にする必要はないと思うんですけど、厚労省は国会に出している年金法案に影響することを恐れているのかな」と、金融庁の幹部は語る。TPP(環太平洋経済連携協定)の審議がヤマを越え、年金法案が重要法案として注目されている。民進党など野党は「年金減額法案」とレッテルを貼って、法案通過阻止を掲げる。それに影響させたくない、ということだろうか。

 一方で、会議に参加しているメンバーのひとりは、「参加している基金への配慮ではないか」とみる。検討会に名前を連ねておきながら、スチュワードシップ・コードを受けれないとなれば、加入者や世間から批判を浴びることになりかねない、というのだ。

 あるいは、厚労省の現場は大臣に指示されて渋々動き始めたものの、経団連など財界団体や主要企業と事を構える気概はない。「しょせん金融庁の手柄にしかならない仕事」とみているのではないか、という声もある。

年金が「モノ言う株主」に変わることに経済界は反発

 経済界はスチュワードシップ・コードが広がることで、年金が「モノ言う株主」に変わることに反発している。株主総会での取締役の選任で、反対票を投じる海外投資家などが増えている。社長が再任されても、他の役員に比べて賛成票が極端に少ないケースもみられる。ワンマン社長の会社でしばしばみられるケースだが、「なんでこんなに少ないのだ」と激怒する社長もいる。

 年金基金が配当性向やROE株主資本利益率)といった実績を基準に容赦なく社長を評価するようになることを、反射的に嫌っているわけだ。

 もっとも、経営者も裏では不満が言えても、表立ってコーポレートガバナンスの強化に抵抗はできない。自らの無能を満天下に晒すことになるからだ。そうした「本音」の議論が非公開のスチュワードシップ検討会で行われているのかどうか。いずれにせよ、検討会は来年3月までに報告書をまとめる予定だ。

 金融庁も来年6月の成長戦略の見直しに向けてスチュワードシップ・コード自体の改訂に着手している。厚労省の検討会の提言を受ける形で、スチュワードシップ・コードに、年金基金はどう行動すべきかという指針が盛り込まれる可能性は高い。

 年金基金が本気で年金受益者の利益を第一に考えた行動を取り始めれば、日本のコーポレートガバナンスは大きく変わる。金融庁の幹部も「スチュワードシップ・コードを主要な年金基金が受け入れれば、ガバナンスは一気に向上する」とみる。

英国の年金基金が「スチュワードシップ・コード」に魂を入れた

 年金ガバナンスの重要性を訴えているニコラス・ベネシュ会社役員育成機構(BDTI)代表理事は、こう語る。

 「英国でも同じ事が問題になりました。スチュワードシップ・コードに魂を入れたのは年金基金だったのです。年金基金が本気になれば、その資金運用を受託する金融機関も本気になります。基金から『きちんと運用しないなら委託先を変える』と言われれば、受託している資金のサイズが大きいだけに、機関投資家は真っ青になって行動します」

 アベノミクスの3本目の矢の中で、海外投資家に最も評価されたのが「コーポレートガバナンスの強化」だった。果たして、作った制度に魂を入れることができるのか。厚労省の検討会の議論の行方を注視したい。