「働き方改革」で回り始めるガバナンス ミッシングリンクをつないだ「アベノミクス」

日経ビジネスオンラインに8月10日にアップされた『働き方の未来』の原稿です。オリジナルページ→https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/021900010/080900074/

電通問題”で国民が規制強化を支持
 「アベノミクス」と「働き方改革」はどう繋がっているのか、という疑問の声をしばしば聞く。確かに、デフレからの脱却に向け経済対策と、長時間労働の是正など従業員の待遇改善は、一見、関係がない政策、あるいは対立する政策のようにすらみえる。労働時間を短くしたら、企業収益が落ちて経済対策にならないのではないか、というわけだ。

 これには安倍晋三内閣が「働き方改革」を打ち出したタイミングと、あの電通新入社員の過労自殺が注目されたタイミングが偶然重なったことが大きく関係している。

 首相官邸で「働き方改革実現会議」の初会合が開かれたのは2016年9月27日。前年末の電通社員の自殺について、東京労働局三田労働基準監督署が労災と認定、労災保険の支給を決定したことを遺族代理人らが明らかにしたのが10月7日だった。労働局は電通社員が仕事量の著しい増加で残業時間が急増し、うつ病を発症したため自殺したと「過労死」判定したのである。

 電通のケースでは、1カ月間の時間外労働が約105時間で、その前の1カ月間の約40時間から2.5倍以上に増えていたことなどが明らかになった。長時間労働に対する世の中の「怒り」が一気に燃え上がったのだ。

 もともと「実現会議」のテーマには同一労働同一賃金長時間労働の是正が含まれる予定ではあった。しかし、電通問題をきっかけに世の中の関心は残業時間規制に集中、「主要テーマ」になっていった。

 これが、「働き方改革=残業規制」という印象を一気に強めたと言っていいだろう。もちろん、残業時間に罰則付きの上限を設けるというのは日本の労働法制史上、画期的なことだ。労働組合の連合が支援した民主党政権でも実現できなかったことを、自民党政権が実現してみせたのである。

 アベノミクス円高が是正され、輸出企業を中心に企業業績が大幅に改善したことや、法人税の国際水準への引き下げで、安倍首相の経済界に対する「発言力」は高まった。安倍首相は経済界首脳に直接、賃上げを要請。2013年春から5年連続で「ベースアップ」も実現している。そんな中で、残業時間の上限規制も経済界にのませたのである。2017年3月にまとまった「働き方改革実行計画」でも、経済界が抵抗する「100時間未満」を「安倍裁定」によって決定した。

 残業時間の上限規制に安倍首相が強い姿勢で臨んだのは、電通問題によって国民が規制を支持するとみたからだろう。これが、結果的に、働き方改革は残業をしないこと、長時間労働を是正すること、というふうに短絡的に見られることにつながった。

日本企業の稼ぐ力の「エンジン」に
 だが、実のところ、「働き方改革」はアベノミクスの重要なファクターであることが少しずつ明らかになってきた。

 2014年の成長戦略「日本再興戦略・改訂2014」では、日本企業に「稼ぐ力」を取り戻させることをテーマに掲げ、コーポレートガバナンスの強化に乗り出した。それまでコーポレートガバナンスは、どちらかと言うと企業経営者の暴走を防ぐための「ブレーキ」として議論されてきたが、「稼ぐ力」を取り戻させるための「エンジン」として期待されるようになった。

 例えば、不採算事業をなかなか整理できないのは、社長に意見を言える取締役がいないからだとして、「外部の目」として社外取締役の導入を義務付けるべきだという議論が起きた。不採算事業を整理して収益事業に集中すれば、当然、企業の収益力は向上する。


ミッシングリンク」がつながり「ガバナンス」が回り始めた

安倍内閣が推進した主なコーポレートガバナンス制度改革(磯山友幸作成)


 当初、経団連などは社外取締役の義務付けに反対で、法制審議会(法務大臣の諮問機関)会社法部会がまとめた改正法案では、社外取締役1人の義務付けも頓挫した。それに対して、2015年に導⼊された「コーポレートガバナンス・コード」では社外取締役の選任を求めた。コードはあるべき上場企業の姿を示したもので、拘束力はないが、社外取締役の導入が大きなうねりとなり、今やほとんどの企業が置くようになったのは周知の通りだ。

 そうした取締役会を変えるための改革だけでなく、生命保険会社などを「モノ言う株主」に変えるために、機関投資家のあるべき姿を示した「スチュワードシップ・コード」を2014年に制定した。さらに、国民の年金資金を運用するGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の改革も行った。このほか、第2次以降の安倍内閣で導入されたコーポレートガバナンスに関わる制度改革は枚挙にいとまがない。

 日本のコーポレートガバナンス改革は1990年代から始まり、バブル崩壊後の会計不祥事などが、制度改革を加速させた。連結決算の導入やディスクロージャー(情報開示)制度の強化が図られたのは2000年前後だ。

 だが、当時のガバナンス改革は経済界の反対もあって部分的で、様々な「ミッシングリンク」があった。経営者にプレッシャーをかける取締役会に変わるための社外取締役の導入や、取締役会にプレッシャーをかける株主総会の改革、そこで議決権行使する機関投資家のあり方や株式持ち合いの見直し、生命保険会社のあり方、年金基金のあり方、そしてそこに掛け金を拠出している個人株主や法人株主への分配のあり方など、「円環」が完成しなければ、コーポレートガバナンスが機能しない。にもかかわらず、ところどころが欠落し、円環になっていなかったのだ。それが「ミッシングリンク」である。

 2014年以降の安倍内閣によるコーポレートガバナンス改革によって、ようやくその「円環」がつながったと言ってよいだろう。

上司と部下の関係がより「フラット」になる
 その円環が回り始めることで、プレッシャーがかかり始め、ようやくコーポレートガバナンスが機能していく。ちょうどそんな段階にさしかかっているとみていいだろう。

 そこで、「働き方改革」が大きな意味を持つ。働き方改革によって、働く人と会社、個人と経営者の関係が変わることは明らかだ。働き方改革では、働き方の多様性を認め、よりフラットな関係を会社と働き手が築くことになる。副業や複業を認めたり、働く時間を自分で選ぶなど「多様な働き方」が認められれば、一つの会社に一生涯務める「終身雇用・年功序列」は大きく崩れていく。より自立した「個人」が増えていくことになるのだ。

 終身雇用を前提にした人間関係は硬直的だ、一生付き合う上司にモノを言えるはずはない。伝統的な日本企業では、たいがい上下関係はそう簡単には逆転しない。上司は一生上司であるケースが少なくない。そんな上司に逆らうことなどできないのは当然だ。

 日本型の雇用形態が崩れれば、上司と部下の関係がより「フラット」になっていく。企業がある人の「能力」を買って、あるポストに採用した場合、その専門能力が欠けると判断すれば、解雇する。逆に働く側も自分の期待した仕事ができ、スキルアップにつながるのでなければ、早々にその会社を辞めて、転職する。そうなれば、上司に絶対服従ということはありえない。

 旧来型の日本の会社では、社長が「右」と言えば、実際は左だったとしても「右」という。絶対的な人間関係の中で社長に逆らうことなど考えられないからだ。それが「働き方改革」によって、より自立した自由な働き方をするようになれば、社長にモノを言うこともできる。むしろ専門家として社長にモノ申すことを期待されている。

 つまり、社員が社長の応援団から、社長にプレッシャーをかける「ステークホルダー(利害関係者)」に変わっていくわけだ。

 さらに人手不足が追い風になっている。十分な給料を払わなければ優秀な人材が採用できなくなっている。そうなるとますます社員の「自立」は進み、社員のステークホルダーとしての発言力は大きくなっていく。

 そうなれば、企業は、最大のステークホルダーに報いるために給与を増やすという行動を取り始めるに違いない。分配を増やそうと思えば、全体のパイを大きくする。つまり収益力を上げるほかない。

 働き方改革が企業の「稼ぐ力」を改善すれば、当然、生産性は上がっていくことになるわけだ。