かなり時間がたってしまいましたが、スイス大使館の企業誘致局が出しているニュースレターのインタビューシリーズ最終回を再掲します。
スイスは国際金融の動きをウォッチするジャーナリストにとっても重要な場所である。日本経済新聞編集委員として活躍する滝田洋一さんは、日本の金融記者としては圧倒的な存在で、滝田さんの記事を漏らさず読むファンは少なくない。そんな滝田さんの国際記者としての振り出しは入社6年目で初めて赴任したスイス・チューリヒだった。言うまでもなく筆者の尊敬する先輩である。滝田氏にスイスについて聞いた。
問 スイスに赴任されていたのはいつごろですか。
滝田 1987年9月から90年9月までの3年間です。日本経済新聞チューリヒ支局の2代目の特派員でした。当時はチューリヒ中央駅からリマト川を越えて丘を上がったところに支局がありました。1985年にプラザ合意があり、日本の金融市場が規制体系から市場体系へと変わっていく過渡期で、金融市場も急速に大きくなっていました。今はありませんが、日経金融新聞という新聞を87年に創刊したこともあり、金融の情報が急速に求められていました。そんな中で赴任したのです。
問 当時は日本企業もたくさんチューリヒに進出していたのでしょうね。
滝田 銀行や証券会社の現地法人だけで40以上あったでしょうか。当時、日本企業がスイスで転換社債を発行するのがブームで、そんな取材が多かったですね。確か87年に野村証券と当時の山一証券がスイスで銀行免許を得たのですが、そんな記事も書きました。当時はまだ日本では銀行と証券の垣根問題がうるさく、証券会社が銀行免許を取るというのは大きな話題でした。
問 金融記者としてチューリヒに赴任して、どんな印象を持ちましたか。
滝田 株式の売買など金融資本市場は当時、ニューヨーク、ロンドン、東京が世界三大市場として大きく伸びていました。スイスはむしろシェアを落としていましたね。しかし、世界から集まってくる長期性の資産を、世界中に分散投資して安定的に運用収益を稼ぐというアセット・マネジメントやプライベート・バンクの仕事が急速に膨らんでいた。この資産のストックに注目したビジネス・モデルはなかなか面白いと思いました。
問 金融記者としての振り出しとも言える場所がスイスだったわけですが、その後の記者人生に影響を与えましたか。
滝田 もちろんです。小さい支局ですので、ひとりですべてをやらなければならず、大変勉強になりました。米国や英国のニュースのように、右から左で日本の新聞に掲載されるようなネタは少なく、何か工夫をしないと東京で記事として扱ってもらえません。切り口や物の見方といったひと味違った工夫をする訓練ができました。自分なりの視点を持つことの大事さとでも言いましょうか。スイスは国の規模も大きくないので、例えば中央銀行であるスイス銀行の理事にインタビューを申し込むと比較的簡単に受けてもらえ、金融政策についての考え方などをじっくり聞くことができました。
問 スイスでの生活はどうでしたか。
滝田 86年秋に結婚した翌年でしたが、一緒にスイスで暮らしました。90年1月には子どもが生まれましたが、チューリヒ大学病院で出産しました。政治や金融が激動の時期だったこともあり、爪先立って仕事をしていましたので、本当に朝早くから夜遅くまで取材し、原稿を書いていました。残念ながら生活を楽しむ余裕はありませんでした。
問 金融記者としてスイスという国をどうご覧になりますか。
滝田 中央銀行の中央銀行であるBIS(国際決済銀行)の本部がスイスのバーゼルにありますが、このBISを持っているのは非常に大きいと思います。私もBISで中央銀行総裁会議が開かれる時など取材に行きましたが、冬など、寒風吹きすさぶ中を総裁が出て来るのを待ち続け、何とか話を聞いてファクスで原稿を送ったのは、なかなか辛い思い出です。また、世界経済フォーラム、いわゆるダボス会議もスイス国内で開かれていますが、世界の指導者を呼んで来る力をスイスの会議が持っているのは大したものです。世界に向けて情報発信できる場を持っていることは強いですね。スウェーデンはノーベル賞をテコに世界に自らの国を売り込んでいますが、ダボス会議はスイスという国の存在をより大きなものとして発信する役割を果たしています。
問 スイスをひと言で評価すると。
滝田 ねばり腰というのでしょうか、しなやかで強靭な国だと思います。今はやりの言葉で言えば、リジリアンスでしょう。大国の間で生き残ってきたスイスという国には、国民の間にとにかく生き残っていくのだという強い意思が共有されていると思います。理想主義を掲げる一方で、極めて現実的な対応も取れる。日本はともするとそういう意思の共有がなかなかできない。国民の共通利益と言うか、国益感覚のようなものを、スイスに学ぶべきではないでしょうか。
問 スイスは欧州の中心ですが、記者として動きまわるにも便利な場所ですね。
滝田 1987年11月9日にベルリンの壁が崩壊するのですが、その1週間後に西ベルリンに行って壁を目の当たりにしました。これでようやく平和が来るなと思ったものです。その後は別の意味で様々な問題が起こるのですが、第二次世界大戦後が終わると思いました。当時、チューリヒから飛行機で西ベルリンに行ったのですが、途中、西ドイツのミュンヘンで当時の米国の航空会社パンナムの飛行機に乗り換えた。つまり西ドイツの飛行機は西ベルリンに入れなかったのではないでしょうか。まさしく第二次大戦後の体制がそこに残っていたのです。スイスの金融界は冷戦体制の崩壊で大きな変化の浪をかぶったはずですが、それでも大きなバブルの崩壊を経験せずに今日まで維持しているのは大したものです。チューリヒは欧州の中心なので、イタリアなどにもよく取材に行きましたね。いずれにせよ、当時の経験が今の記者人生の原点になっているように感じます。