最低賃金引き上げで「時給1000円」時代へ 安倍首相の求心力低下がリスク

日経ビジネスオンラインに7月28日にアップされた『働き方の未来』の原稿です。オリジナルページ→http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/021900010/072700049/

年3%程度の引き上げが続く

 東京の最低賃金が1000円を超える日が近づいている。厚生労働省中央最低賃金審議会は7月25日、2017年度の最低賃金の目安を決めた。全国平均で時給を25円引き上げ848円にするほか、東京都は26円引き上げて958円とした。今後、各都道府県の審議会が、地域別の最低賃金を正式に決め、10月をめどに改定後の最低賃金が適用される。

 政府は2016年6月に閣議決定した「ニッポン一億総活躍プラン」で、最低賃金の「年3%程度の引き上げ」を盛り込んでいた。全国平均の引き上げ率は昨年に続いて2年連続で3%を超えた。東京都の最低賃金も2.7%程度の引き上げが続いており、このペースが続けば2年後の2019年には、最低時給が1000円台に乗る。安倍晋三内閣が中期的な目標としてきた「時給1000」円が実現する。

 安倍内閣最低賃金の引き上げを重点政策のひとつとしてきた。第2次安倍内閣が発足する前の2012年の最低賃金は全国平均で749円、東京都で850円だった。それ以降、毎年引き上げられ、5年間で全国平均が99円、東京が108円引き上げられた。率にすると全国平均で13.2%、東京で12.7%という大幅な引き上げだ。民主党政権時代も最低賃金の引き上げに積極的だったが、2012年までの5年間の上昇率は全国平均で9%だった。最低賃金に近い時給で働くパートやアルバイトなど非正規社員の待遇改善につながってきたとみられる。

 最低賃金の引き上げには中小企業経営者などの反発が強い。彼らを有力支持母体とする旧来の自民党最低賃金の引き上げには慎重な姿勢だった。ここへきて毎年3%の引き上げが実現している背景には、深刻な人手不足によって、パートやアルバイトの時給が実際に上昇していることがある。人材を確保するには時給を引き上げざるを得ないという現実問題が先行しているのだ。ここ数年の急ピッチの最低賃金引き上げには抵抗感はあるものの、反発はあまり大きな声になっていない。

企業利益は急拡大も労働分配率は低下

 安倍内閣最低賃金引き上げに積極的な背景には、アベノミクス開始以降、安倍首相が繰り返している「経済好循環」の実現がある。大胆な金融緩和などによって円高が是正され、企業収益が大幅に改善した。これが賃金の上昇に結びつき、消費の増加などとなって現れるのが「経済好循環」だが、まだまだ一般国民にその実感はわいていないのが実情。安倍首相みずから、経団連などの財界首脳にベースアップの実現を求め、春闘では4年連続のベアが実現しているものの、中小企業では、まだまだ賃上げの動きは本格化していない。

 企業は業績が好転していてもなかなか賃金の引き上げには回さず、内部留保として先行きに備える傾向が強い。最新の2015年度の法人企業統計によると、金融・保険業を除く全産業の期末の利益剰余金は377兆8689億円と1年前に比べて23兆4914億円も増えた。率にして6.6%の増加である。もちろん、最大の要因は企業が稼ぐ利益自体が高水準を続けていること。1年間の純利益は2014年度に41兆3101億円と10%も増えたが、2015年度も41兆8315億円とほぼ横ばいを維持した。アベノミクスが本格的に始まる前の2012年度の純利益は23兆8343億円だったから、円安などの効果で企業の利益は1.7倍に急拡大したことになる。

 この間の人件費の総額も増えていることは増えている。2012年度は196兆8987億円だったものが2015年度は198兆2228億円。1兆3241億円の増加である。ただし、利益(付加価値)の伸び率の方が大きかったので、賃金に回った割合、いわゆる労働分配率は低下している。

 最低賃金の引き上げによって、パートやアルバイトの最低賃金が上昇した場合、それにつれて中小企業の正社員の賃上げに結びつく可能性もある。今後も人手不足が続くことが予想されるため、不安定なパートやアルバイトに依存するよりも、正社員を採用したいと考える中小企業経営者は増えている。特に人手不足が深刻な外食チェーンや小売り、宿泊、運輸関係でこの傾向が強い。こうした業種は給与が低く、生産性が上がらない業種とみられてきたが、人手不足による賃金上昇が顕著になってきた。

 第2次安倍内閣発足直後から雇用者数は増え続けているが、当初は非正規雇用が大幅に増え、正規雇用はむしろ減少傾向が続いた。団塊の世代が定年を迎え、嘱託などとして継続雇用された時期と重なったこともあるが、景気回復が始まった段階での正規雇用に経営者が躊躇していた側面もあった。

 ところがここ1年ほどは非正規雇用の伸びよりも正規雇用の伸びが大きくなる傾向が現れている。最低賃金の上昇でパートなどの給与が相対的に上がったため、むしろ正規雇用を求める経営者が増えたとみられる。

フルタイムで働けば、年間収入は200万円超に

 今年3月に政府の「働き方改革実現会議」(議長、安倍首相)がまとめた実行計画では、「同一労働同一賃金」がひとつの大きな課題だった。仕事内容も責任の軽重も同じ人が正規雇用か非正規雇用かというだけで、賃金格差を設けることは認められなくなる方向にある。最低賃金の引き上げによって、こうした待遇格差が縮まるだけでなく、非正規雇用の正規化にも拍車をかけることになりそうだ。

 東京都で最低時給が1000円を超えてくると、仮に最低時給でフルタイムで働いたとして、年間の収入が200万円を超える。最低賃金はパートやアルバイトだけでなく、正規社員にも当然適用されるので、雇用されて働く人の年収が200万円を下回ることはなくなるわけだ。まだまだ十分な賃金水準とは言えないが、賃金格差や貧困問題を解消していくうえでも、最低賃金の引き上げは一定の効果を上げていると言えそうだ。

 問題は、ここに来て内閣支持率が急低下し、磐石とみられた安倍政権の先行きに不透明感が漂ってきたこと。労働に関係する政策は、労使や与野党など、主義主張や利害関係が対立するものを調整することが重要になる。政権基盤が強くないとなかなか実現できないテーマだ。

 今年秋の臨時国会では労働基準法の改正が大きな焦点になる。例外的に認める残業の上限を「100時間未満」とするなど残業上限を定める法案が審議されるが、政府がそれと「セット」での成立を見込んでいる「高度プロフェッショナル制度」の扱いが微妙になっている。高度プロフェッショナル制度は年収1075万円の専門職社員に限って、残業時間や残業代の規定を除外する制度。政府は、時間では成果を計りにくい専門職が自律的に働くのに不可欠な制度としているが、野党や労働組合は「残業代ゼロ法案」「過労死促進法案」だとして強く批判してきた。

 政府と連合が水面下で続けてきた交渉で、連合執行部は、法案の修正を条件に高度プロフェッショナル制度を容認する姿勢を見せたが、民進党や傘下の労働組合の強い反発で、方針撤回に追い込まれた。背景には、安倍内閣の支持率低下で、「臨時国会でまだまだ条件闘争できるのに、こんなに早い段階で妥協する必要はない」(民進党幹部)という主張が大勢を占めたことがある。政府の足元がぐらついた結果である。

 今後、安倍内閣がさらに弱体化すれば、これまで進めてきたアベノミクスや「働き方改革」などの方向性が大きく変わる可能性が出てくる。もともと安倍首相の改革路線に反対している自民党議員も多いが、安倍首相が高い人気を維持していた中で、「公然とアベノミクスに反対することはできない」(自民党ベテラン議員)というムードが強かった。安倍氏の求心力低下が、来年以降の最低賃金の引き上げや労働政策に、変調をきたすきっかけになる可能性は十分にある。