雑誌Wedge8月号に連載中の『Value Maker』が掲載されました。ぜひご一読ください。
「第二の人生は、本当に世の中のためになる事をしたいと決めていました」
谷川洋さんは元商社マン。丸紅の業務推進部長を務め、海外支店長に出るはずだった50歳過ぎの時に、奥さんにガンが見つかった。谷川さんは海外赴任の話を断り、奥さんの看病を第一にした。出世コースは諦めたわけだ。
奥さんは4年半の闘病の後、亡くなった。60歳の定年まであと数年に迫っていた。「60歳になったら会社をすっぱり辞めて人生を完全に切り替える」。そう谷川さんは決意したという。
60歳での転機
そんなある日、日本財団に勤めていた先輩から、ベトナムなどアジアで学校を作るためのNPOをやってくれる人を探してくれないか、と相談される。
「目の前にいるじゃありませんか」
これもご縁だと、谷川さん自身が引き受ける事を決めた。
2004年3月に定年を迎えた谷川さんは、独力でNGOを立ち上げた(登録は06年)。アジア教育友好協会(AEFA)。理事長として、手弁当で事業をスタートさせた。元商社マンだけに谷川さんは現場主義。AEFAを作ると、自腹でベトナムやラオスに通いつめた。アジアの農村部などでは、学校はあっても掘っ建て小屋のような劣悪な施設が普通。窓もないので、大雨が降ると授業ができない。そこに日本の資金で校舎を建てるのが、AEFAの役割だった。
2005年には、日本財団の助成金を得て、ベトナムに4校、タイに2校、ラオスに2校を建てた。だがいずれ財団の助成は終わる。実際、ベトナムに100校、ラオスに10校など合計116校を建てた14年で、助成は終了した。それが分かっていた谷川さんは並行して寄付による学校建設にも並行して取り組んだ。
だが、寄付集めは簡単ではない。商社時代の伝手をたどって大企業を回ったが、ほとんど協力は得られない。なかなか現金をポンと寄付することは上場企業には難しい、というのだ。
「中小企業のオーナーやベンチャー企業の創業者が最も協力してくれる」ということに気がつく。また、子どものいない高齢者など個人財産を寄付してくれる人も少なくない。06年に谷川さんの力で800万円を集め、2校を自前で建設した。結局、14年までに寄付によって自前で建設した学校は75校に上った。
学校を「村起こし」につなげる
ラオスに通い詰めていた谷川さんはあることに気づく。当初は現地で活動していた米系の慈善団体と組んでプロジェクトを進めていたが、どうも現地の人たちのニーズとズレている。学校だけ造ればそれでいいという感じで、学校が地域の拠点として「村起こし」につながっていない、と感じたのだ。やはり現地の人たち自身にNGO(非政府組織)を作ってもらい、そこと連携する必要がある。
そんなとき米系のNGO団体で働いていたノンさんに目を付けた。ノンさんは、医科大学を出て首都ビエンチャンの病院勤務が決まっていたのを断り、米系NGOに飛び込んだ。地域の貧困を救うには、まずは教育だと考え、学校建設プロジェクトにのめり込んでいたという。実はノンさんは地域の恵まれない子ども7人を養子として育ててきた。
谷川さんはそんなノンさんの熱い想いに打たれ、独立を促した。谷川さんが設立を側面支援したノンさんNGO「ACD」はラオス政府が公式に認定した登録NGOの最初の5つのうちの1つになった。
「その地域でプロジェクトが成功するかどうかは、パートナーの現地NGO次第なんです。ラオスではノンさんたちが本当によくやってくれています」と谷川さんは言う。
谷川さんは19年までの15年で独自に11億8900万円を集め、ラオスやベトナム、タイ、スリランカなどに合計188の学校を建設し、日本財団の助成金も含めると304の学校を建設した。
なぜ、そんなに巨額のお金を集めることができたのか。
資金提供者に、それぞれの学校建設プロジェクトに深くコミットしてもらうやり方が共感を呼んでいるからだ。AEFAにお金を寄付しておしまい、ではないのだ。
どの学校建設に協力するか、資金はひとりで出すか、複数で共同で出すか。まさにオーダーメイドのプロジェクト型寄付なのだ。実際に、学校が完成すると現地で「開校式」が行われ、資金提供者はそれに参加することができる。希望があれば、事前に建設候補地を視察し、案件を選ぶ事もできる。完成した学校には「ファウンダー(創設者)」として名前が刻まれ、現地の子どもたちとの交流も生まれる。
19年の春にラオスの山奥の学校で「開校式」が開かれた。そこには89歳になる日本人の老婦人が車椅子で参列していた。子どもがいないので貯金の一部をAEFAに寄付したいという話が始まりだった。決してお金持ちとはいえない一般の女性だ。
当初は高齢なので現地に行くのは無理だと諦めていた。だが、プロジェクトが進む報告を受けているうちに、現地に行きたくなった、という。子どもたち全員に手縫いの小袋を作り持っていった。式に出て「ラオスにこんなにたくさん子どもができた」と泣いた。
ハコモノだけで終わらせない
とにかく、学校建設をハコモノの提供だけに終わらせない、というのが谷川さんの考えだ。人と人の確かな繋がりを作る。それが本当の国際交流だと考えている。日本の学校と現地校とをつなぐことにも力を割いており、谷川さんやAEFAの職員が日本の学校に出向いてラオスの事などを話す「出前授業」を行っている。すでに740回も行ったというから驚きだ。
「谷川さんのエネルギーは凄まじい」と、民間人として区立中学の校長を務めた藤原和博さんも舌を巻く。藤原さんも谷川さんに惚れ込んでいくつもの学校を寄付してきた。谷川さんと何度もラオスを訪問、友人のIT企業経営者などに声をかけ、学校建設に協力を求めてきた。
そんな藤原さんが、何度目かのラオス行の際、タイ東部の空港から陸路、自動車でラオス南部の都市パクセまで入ったことがある。とてつもないデコボコ道で、座席の上でバスケットボールさながら身体が上下左右に揺さぶられた。「まさに拷問で、勘弁してくれ」という感じだったというが、ふと横を見ると谷川さんが激しく揺られながら爆睡していた。「とんでもないオッサンだと思った」と語る。谷川さんも、「商社マン時代に鍛えられましたから平気なんです。考えると、今日の日のために商社マンやっていた気がします」と笑う。
「第一の人生」の経験が確実に生きて「第二の人生」の価値を増している、ということだろう。
福井県で生まれた谷川さんの両親は教師だった。山の奥地の中学校の先生だった父親と、小学校の先生だった母親が結ばれて、谷川さんが生まれた。地域を発展させるためには教育が何より大事。まずは学校を作らねばという思いは、実は両親の記憶として谷川さんの身体の中に息づいていたのだう。