日本企業は「国際競争」から脱落する 自見金融相が主導する「国際会計基準IFRS」導入先送りへの懸念 これまでの方針を「政治主導」で一転

講談社「現代ビジネス」で6月22日朝にアップされた原稿を編集部のご厚意で以下に再掲します。


 20年以上にわたって繰り広げられてきた会計基準の国際化論議。経済のグローバル化に伴って、ビジネスのルールである会計基準を国際的に統一していくという流れの中で、日本では、国際会計基準IFRSを上場企業に義務付けることで決着するかに思われた。ところが、一部の反対派が政治力を駆使して一気に巻き返し、再び先送りの気配が濃厚に。国力が弱まっている今、「会計鎖国」に踏み切れば、日本は一気に没落することになりかねない。

 金融庁は6月末に企業会計審議会を開き、IFRSの日本企業への適用を先送りする方針を固めた。2009年に開いた同じ審議会で、2012年までに日本の上場企業にIFRS利用を義務付けるかどうか決定、2015年か16年から適用を開始するというスケジュールを決めていた。この日程を2〜3年先送りする、というものだ。

東日本大震災を先送りの理由にしているが、実際は違う。2015年をメドにIFRSの導入を準備している多くの企業にとっては寝耳に水。混乱は必至の情勢だ。


IFRSっていうのは小泉・竹中だろう?」

 IFRS導入に向けて準備を進めてきたはずの金融庁が一転、方針を変えた背景には、"政治主導"の政策転換があった。

IFRS導入は白紙撤回だ」

 自見庄三郎・金融担当大臣が金融庁の幹部に突然、そんな指示を出したのは6月のはじめだった。実は5月25日付けで大手企業が名を連ねた「我が国のIFRS対応に関する要望」が三国谷勝範・金融庁長官あてに出されていた。

 要望事項は、IFRSの扱いについての早急な議論の開始することと、結論が出るまで時間がかかる場合には準備期間を十分にとること、の二点。ところが、別紙としてIFRS導入を白紙撤回することなどを求める一部企業人の意見などが付けられており、真の狙いが反IFRSにあることは明らかだった。この要望書を持って、自見氏のところに陳情が来たことは自見氏自身も認めている。

 陳情した人物が自見氏にIFRSについてどんな説明をし、その結果として自見氏が「白紙撤回」を指示したのかは分からない。だが、その後、自見氏が会った金融関係者に発した質問を聞けば、大臣としての理解の浅さが分かる。

 自見氏は何と聞いたか。

IFRSっていうのは小泉・竹中だろう?」

 尋ねられた人物は耳を疑ったという。

 自見氏が所属する国民新党郵政民営化を推し進めた小泉純一郎元首相と竹中平蔵総務相による、いわゆる「小泉・竹中改革」を全面否定し続けてきた。陳情した人物はIFRSは小泉竹中改革の一環だという説明をすることで、自見氏に反IFRSへと舵を切らせたのだろうか。


国際的なルールづくりの場から脱落する

 金融庁長官への要望書には新日本製鉄トヨタ自動車キヤノンなど名だたる企業の役員が名前を連ねている。前文には「企業・団体としての要望」と断り書きがしてあるが、実際にサインしているのは副社長や執行役員、顧問など。どうみても会社の総意として出した要望書ではない。

 この要望書を取りまとめたのは佐藤行弘氏。三菱電機の財務担当役員を務め、現在は常任顧問という肩書きだ。なぜ、佐藤氏がそこまで反IFRSで凝り固まっているかは不明だが、「IFRSを日本に導入したら大変なことになる」と言って、政治家や幹部官僚、メディアを陳情して歩いている。経済産業省の平塚敦之・企業会計室長と共に、反IFRSの急先鋒となってきた。

 平塚氏らは経産省出身者がいるシンクタンク東京財団を使って反IFRSのキャンペーンを展開。東京財団の上席研究員である岩井克人・元東京大学教授らに「IFRS異議あり」という本まで出版させた。本の帯には「強制適用に断固反対する」と記されている。

 同書では、会計基準のあり方は国益や企業の利益に直結する問題だとしている。一方で、IFRSを決めているIASB(国際会計基準審議会)にプレッシャーをかけつつ、IFRSの内容を日本に有利なように導いていくべきだとしている。いずれも正論だ。だが、そのための結論がなぜ反IFRSなのか。

 20年にわたる会計基準の国際的な統一のプロセスで、日本は大きな議論を経ながらも、連結中心の決算への移行や、保有株式などへの時価会計の導入、含み損を抱えた資産の損失処理をする減損会計の整備なども行った。日本の会計基準は国際基準とほぼ遜色ないところまできており、IFRS導入のメドが立ちつつあった。

 一方で、IFRSを作るIASBには当初から理事1人を送り込み、理事を選ぶ評議員会には2人の日本人がいる。日本の経済力がつるべ落としとなる中でそれだけのポストを確保できたのは、IFRS推進派の人たちの努力によるものだ。

 現在、理事や評議員のポストは韓国やシンガポール、中国、ブラジルなどの成長著しい国々が虎視眈々と狙っており、どちらかというと日本は防戦に晒されている。「ここでIFRS導入を先送りすれば、確実に日本はこうしたポストを失う」と評議員の1人で評議員会副議長にも選ばれている藤沼亜起・元日本公認会計士協会会長は力を落とす。

 IASBの動向をチェックする政府監督者の集まりである「モニタリングボード」には、米SEC(証券取引委員会)やEC(欧州委員会)と並んで日本の金融庁も選ばれ、三国谷長官も出席している。

 つまり、IFRSの作成に当たって、日本が自分たちの主張を最も通しやすいポストを得ているのだ。IFRSに背を向けても日本の意見は聞いてくれる、という反対派の主張は、国際的なルール作りの場で繰り広げられるヘゲモニー争いの凄まじさを知らない傍観者の論理だろう。


巨額な買収に日本企業が乗り遅れる

 IFRS反対派は、企業が選択適用できるのだからそれで十分だと主張する。確かに、事業や株主構成がグローバル化している企業は、政府の方針がどうあれIFRSへ移行していくことになるだろう。

 その際、不利益を蒙るのは投資家だ。日本の同じ市場に上場する企業でありながら、情報開示の基準がバラバラでは、企業間の比較ができなくなる。株主や投資家に一つのモノサシで情報を提供できない市場は、資本市場としては質が低いということになる。

 それでなくとも東京市場は世界のマーケットから大きく劣後しつつある。「なんでここまできてIFRS先送りなのか、まったく理解できない」と市場の質に責任を負う立場である斉藤惇・東京証券取引所社長は呆れる。

 では、本当に日本基準に固執することが日本の国益にかなうのか。

 一例を挙げよう。企業が他の企業を買収した際、買収した価格と企業の資産価値との差を「のれん代」と称する。長年、こののれん代の会計処理方法については議論があるのだが、現在のIFRSでは、のれん代は償却しなくてよいことになっている。つまり、毎期の決算の費用としてマイナスは生じないのだ。これに対して日本基準の場合、のれん代は毎期償却しなければならない。経費が膨らみ、決算を圧迫するわけだ。

 これはどちらが会計基準として正しいか、という論理ではない。例えば国際市場で巨額の買収合戦が起きたとしよう。IFRSを採用している欧州企業や中国企業は経費負担を気にせず、巨額の買収を行うことができる。一方、日本企業はのれん代の償却負担を気にして巨額買収を躊躇せざるを得なくなる可能性がある。つまり、ルールが違うために、企業行動が制約されるのだ。これはグローバルに競争しようとしている企業にとっては死活問題だ。

 こうした問題が現実になっている。武田薬品工業がスイスの医薬品会社を1兆円超で買収したが、武田が日本基準を続けた場合、巨額ののれん代の償却が発生する。おそらく武田としてはIFRSを任意適用する他ないだろう。


再びグローバル化に背を向けるのか

 グローバルに展開している企業はともかく、中堅企業にまでIFRSを義務付ける必要は無い、というのも反対派の主張だ。果たしてそうか。

 巷間、日本国債のデフォルトリスクなどが語られている。増税路線に舵を切りたい財務省などが過度に煽っている面もあるが、日本市場での金利上昇や資金不足を指摘する声がある。仮にそうなれば、企業金融の環境も大激変である。

 リーマンショック後に短期市場から資金が枯渇した際、大企業は我れ先に資金確保に走った。現実にはマーケットで資金が取れずに冷や汗をかいたのは中堅企業である。日本全体で金融逼迫が起きた場合、中堅企業がアジアなど海外での資金調達に依存せざるをえなくなる可能性もある。その時に世界に通用する会計基準で情報開示していなかったとしたらどうなるか。

 国内市場が収縮を続ける中で、これからますます、企業の頼みの綱は海外になっていく。国際的に通用するIFRSの採用は導入時には企業のコストになるかもしれないが、リスクヘッジの効果は十分にあるだろう。

 IFRS推進派と言われる人たちはグローバル化の中で日々戦いながら日本の国益を守ろうとしてきた人たちが多い。彼らは今、激しい虚脱感に襲われている。一部の反対派の煽動に乗った政治家のツルの一声で、これまで積み重ねてきた努力が水泡に帰してしまう、というわけだ。

 このまま「平成の開国」は掛け声倒れに終わり、再びグローバル化に背を向けた鎖国へと戻っていくのか。IFRS問題は単に会計基準という専門分野の問題に留まらず、日本の行く末を左右する大きな試金石である。