東電「カタチ偏重」と会長人事難航

Facta5月号に掲載した記事を編集部のご厚意で再掲します。
オリジナルページ → http://facta.co.jp/article/201205049.html



駆け出しの記者だった時代、財界人取材で東京電力の会長室に何度か行ったことがある。ドアを開けると、部屋の半分の電気が消えていて、会長自らおもむろにスイッチを入れ、明かりを点けた。二度目の時もそうだった。

経営が傾いていたころの日産自動車でも同じような経験をした。カルロス・ゴーン氏がトップとして入ってくる前のことだ。正午になると部屋の電気が一斉に消え、客がいようがお構いなしだった。

両社とも、外部の人に日ごろの節電ぶりをアピールしたかったわけではないだろう。だが、何とも言えぬ違和感を覚えた記憶がある。思い返して、ふと「実よりもカタチ」のほうが会社の中で重要になっていたのではないか、と思った。

来客があるから明かりを点けておくという臨機応変よりも、とにかく電気は消すという社内ルールを守ること、あるいは守っているという姿勢を示すことが重視される。そんな官僚的社風が染み付いていたのではないか、と思うのだ。

¥¥¥

東電福島第一原子力発電所の事故では、様々な「想定外」が深刻な事態を招く原因になった。堤防の高さしかり、非常用電源の設置場所しかり。今になってみれば、なぜ堤防をもっと高くしておかなかったのかとか、非常用電源を高台に設置しなかったのか、という疑問が湧く。だが、万が一に備えるという臨機応変さよりも、決められたルールをきっちり守ればいいというカタチ重視がはびこっていたのかもしれない。

事故原因を究明するために国会が設置した「東電福島原発事故調査委員会」(国会事故調)も、そんな東電のカタチだけを重視する官僚的な体質が、事故原因の一つになったのではないか、と疑っている。

毎回公開で行われている委員会では、東電幹部などのヒアリングが繰り返されている。そのやり取りを聞いていると、東電が絶対に譲らない一線が、おぼろげながら見える。自分たちは政府の規制機関である原子力安全・保安院などが決めたルールをきちんと守っていたのだ、という一線だ。

つまり、原発事故が起きたのはルールの想定を超えた事態が生じたからであって、東電がルールを守らなかったわけでも、東電に重大な過失があったわけでもない、という立場を貫いているのだ。

国会事故調の委員が「もっと臨機応変にできたのではないか」と問い詰めると、「そう指摘されれば、忸(じく)怩(じ)たる思いだ」と殊勝に頭を下げる。だからと言って、責任を認めるわけでは決してない。ましてや、心底申し訳ないと思っているようにも見えないのだ。

委員のなかには、東電が役所や学者などに接触し、基準が緩くなるよう圧力をかけていたのでは、と疑う向きもある。つまり、カタチを整えるために自ら基準を操作していたのではないか、というわけだ。

これまで表面化している隠蔽事件にしても、「原発は安全である」というカタチを整えることが重視された結果、引き起こされたと見ることもできる。過去に臨界を起こしていた事実や、原子炉の構造物にヒビが見つかったことなどが、長年を経て明らかになった。起きるはずのない「想定外」の事態が引き起こされた場合、思考が停止してしまう。それが隠蔽を生んだ風土ではなかったのか。


カタチを整えることを最優先する社風が根付いた東電を、どう透明性が第一の会社に変え、国民の信頼を取り戻すか。政府は3月中に、東電のあり方を決める「総合特別事業計画」をまとめる予定だった。ところが期限までに決まらず、大幅にずれ込んだ。政府の出資比率や会長人事が決まらなかったためだ。

政府は、事故後も引き続きポストに留まっている勝俣恒久会長の後任に、民間の企業経営者をあてる方針で人選を進めてきた。仙谷由人・元官房長官が中心になって、大物経営者に打診してきたが、軒並み就任を断られたという。

火中の栗を拾う心意気のある経営者がいなくなったからばかりではない。一部で名前が挙がった財界人は「本当にすべてを任せてもらえるのか分からないので引き受けようがない」と話していた。

政府が株式の過半数を持てば、当初は全権を委ねられるだろう。だが、後ろ盾の民主党政権がいつまでも続く保証はまったくない。自民党から民主党への政権交代で、日本郵政の社長を追われた西川善文・元三井住友銀行頭取の哀れな姿が、目に浮かぶのだろう。

かといって、政府が過半数未満の株式しか持たなかった場合はどうか。経営形態を大きく変更することが難しくなり、外部から乗り込んだ新会長が改革の大ナタを振るうことはおそらくできない。従来の東電経営陣が実質的な権力を温存することになりかねず、そうなれば会長はお飾りだ。しかも、「あの社風では所詮よそ者の会長に本当の情報が上がってくるか疑問」(前出の経営者)というのだ。

¥¥¥

出資比率をめぐる政府と東電の対立は尾を引いた。当初、枝野幸男経済産業相は政府が東電の株式の過半数を握ることにこだわった。国が過半数を握れば、東電自身の経営の自由度は削がれる。

東電からすれば、発送電の分離や地域独占の放棄といった自由化路線に賛成する新会長だけは願い下げということだろう。「改革した」というカタチだけ整えて、これまで通りの体制を維持したいのは自明だ。

だが一方で、能力のある経営者なら誰でも新会長が務まるわけではないという。経産省のOBは「社格がモノを言う」と語る。世の中では大企業として通っていても、東電への納入業者では社長でも東電の購買部長に頭が上がらない。そんな人が会長になっても社内はまとめられない、というのだ。

逆に電力の大需要家ということになると、重厚長大産業の企業が多い。だが、こうした企業はおおむね円高で自社の業績が悪く、東電に関わっている場合ではない。

1年前の震災直後、東電の経営形態のあり方が大きな議論になった。法的整理によって出直しを図るべきだという声も強かった。だが、政府は被害者への賠償が万全に行えるという理由を付けて、東電を存続させる道を選んだ。悪しき社風を一掃するチャンスを失ったとも言える。

新生東電がどんな形態でスタートするのか。日本の電力供給のあり方をも左右するだけに目が離せない。