アベノミクスの行方に関心が集まっています。経済政策にこれだけ多くの国民が関心を持ったのは珍しいことです。一方で、多くの人たちが、アベノミクスは単に古い自民党に戻るだけの政策になってしまうのではないか、と危惧しているのも事実です。果たしてどうなるのか。少し古くなりましたが、1月中旬に「現代ビジネス」に掲載した拙稿を、編集部のご厚意で再掲します。オリジナルは→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34654
霞が関と永田町の風景はすっかり3年3ヵ月前に戻った。
「脱官僚依存」を掲げて各省庁の意思決定プロセスを根本から変えた民主党が去ると、誰が指示をするでもなく、すべてが元に戻ったのである。「政治主導」の象徴だった政務三役会議も官庁から姿を消した。
副大臣や大臣政務官に就いた自民党議員はみな、政権に返り咲いたことで上機嫌で、「よきに計らえ」とばかり官僚任せになった。霞が関の官僚たちもイキイキとした表情で、自分たちの政策ペーパーを大臣室に運んでいる。まるで民主党政権など存在しなかったかのような光景だ。
議員会館の様子も変わった。民主党は原則として個別議員への陳情を禁じ、幹事長室に一本化していたから、議員会館の受付は空いていた。それが自民党が政権に復帰してから、長蛇の列が見られるようになった。業界団体や地方自治体からの議員への陳情が戻ってきたのだ。民主党が批判し政権交代の原動力になった「政官業の癒着」も、再び戻ってくるのだろうか。
道半ばで行き詰った民主党政権の「官僚排除」
これが選挙によって国民が示した意思なのだろうか。すべて元の木阿弥にする事が、国民の望んでいる事なのか。「脱官僚依存」も「政治主導」も、「政官業の癒着打破」もひと時の熱病のようなもので、国民はもうどうでもいいと思っているのか。3年3ヵ月の民主党政権には、確かに失望させられたかもしれないが、すべてを否定してしまって良いのだろうか。おそらくそうではあるまい。
民主党が政権を取った2009年夏。霞が関には緊張が走っていた。事務次官全員に辞表を出させるのではないか、という噂が駆け巡っていたのである。官僚が政策をほしいままにしている状況を一気に変える。政府に入っていった民主党議員たちもそう意気込んでいた。
真っ先に行ったのが事務次官会議の廃止と事務次官の記者会見禁止だった。明治以来続いていた事務次官会議は、慣例で閣議案件を事前了解することになっていた。つまり全次官が了承しなければ閣議案件にはならない仕組みができあがっていたのだ。その会議を民主党は真っ先に廃止した。
次官会見も廃止し、その代わりに大臣や副大臣が定例会見することとなった。政治家が了承する前に、あたかも決まったかのように次官が省の方針を語るのは許されない、という趣旨だった。
そして設けたのが政務三役会議である。大臣と副大臣、大臣政務官の政治家三人が、省の方針を最終決定することにしたのだ。大臣によっては次官の出席を禁じたり、出席してもテーブルには着かせず、後ろの席で傍聴させるだけにした。政治家がすべて決める「政治主導」を形で示したわけだ。
だが、このような「官僚排除」のやり方は民主党政権の間に行き詰まった。菅直人内閣になると「事務次官連絡会議」が生まれ、事務次官会議の復活ではないかと言われた。政務三役会議にも官僚が出席し、意見を言うようになった。
菅氏も財務大臣になったばかりの頃は役人の説明は聞かないと言い張り、政務官など政治家だけの説明を聞いていたが、それも徐々に崩れていった。仕事が回らないからである。そして少しずつ官僚依存になっていった。野田佳彦内閣は官僚の言うことを良く聞くとして霞が関でも評判が良かった。
民主党は政権交代前、「政治主導」の具体的な方法を検討していた。100人規模で政治家を役所に送り込むというのも構想の1つで、政務三役会議はその象徴でもあった。年金問題などを追及してきた長妻昭氏が厚生労働大臣に就いたが、初登庁の際に出迎えた職員が誰ひとりとして拍手をしない異常な光景となった。
大臣室に陣取った長妻氏は役人の説明を信用せず、自ら電卓を片手に資料を検証する姿が報じられた。あたかも政治家が官僚の仕事をやっているように見えたものだ。民主党政権発足時に『日経ビジネス』が行ったアンケートで、最も期待が高かった大臣は長妻氏だったが、わずか1年で厚労省を去った。
国民を味方に付けることができなかった民主党
では、なぜ、民主党の「政治主導」は破綻したのだろうか。
「事務次官全員に辞表を出させれば良かったんですよ」
そう何人かの官僚は言う。民主党内閣発足の際に次官全員にいったん辞表を出させ、首相や各省大臣が再任する形にすれば良かった、というのだ。民主党政権に恭順の意を示した次官を使う姿勢を見せれば、役所は言う事を聞いた、というのである。米国の政治任用に近い形になったかもしれない。
実際には鳩山由紀夫内閣は政権交代しても次官人事には手を付けなかった。また、民主党批判を繰り返していた一部の次官は、霞が関でも更迭必至と見られていたが、その次官すら続投させている。次官に代わって政務三役が意思決定をするので、次官の存在自体が有名無実化すると考えていたのかもしれない。だが、次官人事に手を付けなかったことで、民主党政権が霞が関にナメられたのは事実だ。
一方で、政務三役会議は密室で行われ、役人も同席していないので、議事録も作られなかった。このため、メディアも政務三役会議の存在を応援しなかった。むしろ議事録が残らない「不透明さ」を批判した。つまり、国民のために脱官僚の体制を作っているはずなのに、国民を味方に付けることができなかったのだ。
次官会見を禁止したことも、役所の実態を覆い隠すことにつながった。これは民主党が意図しなかった結果だろう。次官が会見者ならば記者の追及をかわすのは大変だが、政務三役が代わりに答えてくれるから気が楽、というわけである。安倍内閣になって、事務次官連絡会議の開催は真っ先に決まったが、次官会見は復活していない。これは安倍新政権の意思というよりも、役人が望んでいないからだとみていい。
安倍政権の誕生に霞が関は身構えた。第1次安倍内閣の際の記憶が残っていたからだ。安倍内閣は公務員制度改革の法案を通したが、その際、何人かの事務次官が次官会議で強行に反対した。当時のルールでは反対がいる限り、法案を閣議決定できない。それを安倍首相は「事務次官会議など通さずとも構わない」と無視したのだ。明治以来の慣例を打ち破ったのは、実は民主党内閣ではなく、安倍首相だったのである。
そんな安倍氏が首相に返り咲いて、再び「政治主導」を試みるのではないか。第1次内閣の時に各省庁の反対を押し切って改革を進める舞台となった経済財政諮問会議の復活を早々に安倍氏が決めたことでも警戒感が広がった。だが、今のところ安倍氏は官僚と衝突する事を一切避けているようにみえる。
とはいえ、早晩、安倍氏は再び「官邸主導」や「公務員制度改革」に踏み込まざるを得なくなるに違いない。参議院選挙に向けて、国民の改革期待が高まれば、何らかの方向を示さざるを得なくなるからだ。しかし、その前にやっておくべき事がある。民主党政治の3年3ヵ月を「仕分け」することだ。
岡田克也・前副総理が進めようと準備していた独立行政法人改革などの行政改革は地味だが思い切った内容のものが含まれていた。法案にまでまとまっていたが、いずれも廃案となっている。民主党内閣が進めようとした事であっても、意味のあるものはきちんと引き継ぐことが重要だろう。そして、民主党政権のどこに国民が最も失望したのかを分析しておくことも大事だ。これをきちんとやっておかないと、自民党も次の選挙で国民の失望を買うことになる。