時計を「資産」として買う欧州の伝統(クロノス日本版11月号)

「クロノス」という時計雑誌があります。隔月刊の綺麗な作りです。その雑誌に昨年秋から『時計経済観測所』というコラムの連載を始めました。スイス・チューリヒ支局長時代から、景気のバロメーターとして時計に注目し続けていますので、編集部からお話をいただいた時は「わが意を得たり」という感じでした。以下、編集部のご厚意で再掲します。クロノス日本版のウェブサイトは→http://www.webchronos.net/

Chronos (クロノス) 日本版 2012年 11月号 [雑誌]

Chronos (クロノス) 日本版 2012年 11月号 [雑誌]

 スイス・チューリヒの目抜き通りバーンホフ・シュトラッセの老舗時計宝飾店には、独特の機能がある、とスイスのプライベート・バンカーが教えてくれた。上顧客に売った時計を買い戻してくれるというのだ。彼らが決して大安売りのバーゲンセールをしないのは、「売る」ことだけが店の機能ではないからだという。
 1個数百万円から1000万円を超えるような時計は間違いなく「財産」だ。子や孫に受け継がれるだけでなく、さまざまな贈答にも使われる。腕にするだけで良いので、国家の危機や戦争となれば、簡単に持ち運ぶことができる。
 だが、いくら高級な贈答品をもらっても、それが換金できなければ意味がない。戦争などから無事に自分の財産を守り通せても、時計のままでは生活の糧にはならないのだ。骨董品店に持っていって換金するという手もあるにはある。だが、それでは買い叩かれるのがオチだ。
 チューリヒの老舗時計宝飾店は顧客に有利な価格で買い取るのだという。ご承知の通り、高級時計には個別に番号がふられているので、出自は明らか。自分の店で売ったものかどうかも一目瞭然だ。値引きをして売った商品ではないから、買い取り価格も高くできるわけだ。もちろん店に一定の「差益」は落ちる。
 銀行が軒を連ね合間に時計宝飾店があるのは何とも不釣合いだと思える。だが、時計店も歴史的に一種の金融機能を果たしてきたと考えると、同じ場所にあるのは理に適っていることに気付く。
 何度も戦場となった経験のある欧州の人たちには、どうやって財産を守るかを真剣に考える〝遺伝子〞が息づいている。ドイツのちょっとした旧家では「ケラー」と呼ばれる地下倉庫に、金貨が代々保管されている、という。いざという時に、その金貨を持って逃げるわけだ。
 最近の日本では「箪笥預金」などと言われ、手元に現金を置いておく人もいる。だが、現金では国家が破綻した際には紙切れになってしまう。国家が破綻しなくとも、財政危機などで物価が上昇するインフレになれば、紙幣の価値は落ちる。そういう経験をドイツ人などは何度も繰り返してきたのである。
 さりとて、金貨や金塊では持ち運びが重くて大変だし、人目にも付く。そこで高級時計に同じ機能を持たせる「知恵」が生まれたのだろう。
 財産を持ち運ぶとなれば、時計1個の価格が高ければ高いほど良い。1個数千万円という目の眩むのような時計が次々に誕生するのも、単に金満家の金ぴか趣味ばかりが理由ではなさそうだ。背景にそんな別の〝使用目的〞があるのかもしれない。
 世界の金融界はユーロ危機におののいている。弱い通貨を持ち続ければ、財産価値は目減りする。数年前から欧州で金貨が爆発的に売れているのも、将来が不安な現金ではなく、金貨など財産価値を守れるモノに替えておこうという動きだ。同様に欧州で高級時計が売れている一因にも、同じ流れがあるとみていいだろう。
 消費税増税が決まった日本。2014年4月に税率が現行の5%から8%に、2015年10月には10%に引き上げられる。だが、これで日本政府の財政が赤字体質から脱却でき、健全になるのかといえば、そうではない。膨らみ続ける社会保障費などの予算を、13兆円と見積もられている増税による税収増ではとうてい賄えないのだ。
 国の借金である国債の利払いや元本償還などの費用を除いた基礎的財政収支(プライマリー・バランス)と呼ばれる段階でも、まだまだ赤字。赤字国債を発行しなければ支出を賄えない自転車操業状態が続くことになる。
 そうなると追加の増税が避けられない。多くのお金持ちが気をもむのが「資産課税」の強化だ。すでに相続税の課税範囲を広げる動きが現実になっている。旧社会党系の議員などの中には「相続税の税率を100%にしろ」と主張する議員もいる。死んだら財産を没収しろ、というわけだ。預金や不動産などへの課税強化も今後話題になるだろう。日本でも現金や不動産などからモノへと資産を移す素地ができているように思う。

『クロノス日本版』43号(2012年11月号)2012年10月3日発売 http://www.webchronos.net/