現代ビジネスに2月22日にアップされた原稿です。オリジナルページ→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54556
紛糾の経緯
裁量労働制に関する安倍晋三首相の答弁を巡って国会が紛糾している。きっかけは1月29日の衆議院予算員会で、安倍首相が「平均的な方で比べれば、一般労働者よりも(裁量労働制で働く人の方が)短いというデータもある」と発言したことだった。
その後、野党の指摘で、調査方法の違う2つの結果で、単純には比較できないデータだったことが発覚、安倍首相は答弁を取り消した。これに対して、立憲民主党や希望の党などが政府の答弁は不十分だとし、2月19日の衆議院予算委員会を途中で退席する事態に発展していた。
2月20日の予算委員会では安倍首相が改めて「結果として性格の異なる数値を比較していたことは不適切であり、私からも深くおわびする」と謝罪したが、野党側は「捏造ではないか」「無責任だ」などと批判を繰り返した。
もともと首相の答弁は、厚生労働省が準備した答弁案をベースに行われたと安倍首相自身が答えている。裁量労働制の適用範囲を拡大する労働基準法改正を何とか通したい厚労省の官僚からすれば、都合の良いデータを示すことで説得力を持たせようと考えたのだろう。
今回のように別々の調査で手法が違うものを2つ並べて比較するのは、官僚の仕事としてはあまりにも出来が悪いが、都合の良いデータだけを抜き出して説明に使うのは霞が関の常套手段だ。役所から上がってきた「都合の良いデータ」に安倍首相が飛びついてしまった、というわけだ。
2月20日の予算委員会で安倍首相は「詳細を把握しているのは厚生労働大臣で、私は予算案について答弁する責務を負っているが、すべてを私が把握しているわけではない」と半ば開き直っていたが、これも無理ないところである。野党もそうした齟齬が生じることがあるのは百も承知だ。
ところが、野党側は鬼の首を取ったかのごとく首相を攻め立てている。首相官邸から指示をして都合の良い数値を捏造させたのではないか、あるいは、官邸への忖度によって改ざんが行われた、と執拗に批判している。裁量労働制の拡大を法案から除外すべきだ、といった主張まで飛び出している。
そもそも裁量労働制とは
そこまで国会で野党がいきり立つほど、この首相答弁は大問題なのだろうか。
裁量労働制とは、実際の労働時間がどれぐらいかには関係なく、労働者と使用者の間の協定で定めた「みなし時間」だけ働いたとして、労働賃金を支払う仕組みだ。企業は労働時間の管理を労働者に委ねて、企業は原則として時間管理を行わないことになっている。
「どれだけの時間働いたか」よりも「どれだけの成果を上げたか」が重要な専門的な職種などで採用が認められている。法人向けの提案営業(ソリューション型営業)にも適用することが法案には盛り込まれる予定だ。
「働き方改革」の目玉である今回の労働基準法改正案には、長時間労働の是正に向けて残業時間の上限を法律で定め、違反した場合には罰則を科すことも含まれている。
これは労働組合や働く人たちの悲願とも言える改正で、ともすると青天井だった残業に一定の歯止めがかかると期待される。
もちろん残業に上限を定めることには経済界にも根強い反対があったが、電通社員の過労自殺問題などをきっかけとする長時間労働の見直しを求める世の中の声に押され、受け入れざるを得なかった。
ただし一方で、時間だけに捉われない働き方を認める制度の充実を同時に行うことが盛り込まれた。その1つがこの裁量労働制の拡大だった。
経済界からすれば、残業の上限規制と時間に捉われない働き方の制度拡大はワンセットだったのだ。昨年春の段階では連合もそれに同意していたのである。
ところが、野党はどうやらこの「合意」を反故しようとしている。残業の上限規制だけは手に入れ、裁量労働制の拡大は闇に葬る、そのためには首相のミスを徹底的に追及していく、という姿勢に転換してように見える。
安倍首相の答弁が稚拙だったことも間違いない。時間管理が意味を持たない裁量労働制の対象者の労働時間を云々することにどれだけの意味があるのか。一般の従業員に比べて実際働く時間が短くなるかどうか、というのは本質的な議論なのか。
もちろん、野党がレッテルを張るように、「残業代ゼロ」「働かせ放題」「過労死促進」と言った事態が裁量労働によって引き起こされているのなら、そうした問題に対処する必要があるのは当然だ。制度を作れば必ず悪用する人が出てくる。裁量労働制を悪用するブラック企業には、会社が破綻するぐらいのペナルティをかければ良い。
それよりも、時間に応じて給与を払うスタイルが馴染まない職種がどんどん増えている事に、今の労働法制が合致していないことを早急に改善する必要がある。より多様になっている働き方を規定し働き手を守る制度を整備する必要があるのは間違いない。
労働の量より質が求められている
国会の審議を見ているとあまりにも不毛だ。いったい何のために「働き方改革」をやらなければならないのか。働き方改革は、働き手が楽をして、遊んでいても高い給料をもらえるようにしようという事ではないはずだ。
より効率的な働き方によって、企業がもっと収益を上げ、その果実を給与としてより多く分配する。企業が成長すれば株価も上がり、国民の年金資産も増える。人口が減少に向かう中で、要は生産性を上げていくために、働き方を抜本的に見直す必要がある、ということなのだ。
安倍首相はしばしば、安倍内閣発足後、雇用者が大幅に増加した、と自賛する。確かに雇用者が300万人以上増えた。バブル期よりも高度経済成長期よりも日本全体の雇用者は多い。過去最高を更新し続けているのだ。
それぐらい多くの人が働くようになって、ようやくGDP(国内総生産)が増え始めた。第2次安倍内閣以降、首相が繰り返してきた「女性活躍促進」や、高齢者雇用を訴えた「一億層活躍」などで、働く人が増えたために、「生産量」は増えたのだ。
だが、これから、人口が減る中で、「労働力」を増やすことでGDPを増やすという選択肢はなくなる。
一人当たりが生み出す付加価値、つまり労働生産性をどうやってあげていくかが今後の焦点なのだ。かつての工場労働と違い、機械の前に座っている時間と製造されるものの量が比例するような働き方が一般的ではなくなりつつある。
もちろん、時間に応じて給料が払われるべき仕事は今後も残り続けるが、時間では測れず、結果で成果を図る仕組みに変えていくことがますます重要になっているわけだ。
そもそも、裁量労働制の社員と、時間で働く一般の社員とで、どちらの労働時間が長いかなど、国会で長時間を費やして議論する話ではない。そんな国会こそ、生産性の低い働き方の典型ではないのか。