人間はおカネのために働くのか 選択できることこそ重要

日経ビジネスオンラインで12月28日にアップされた拙稿です。オリジナルページ→https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/021900010/122700083/?P=1


日本の報酬体系はグローバル水準から逸脱
 人は何のために働くのだろうか。生きていくためにはおカネが必要なので、「労働の対価」としてそれを受け取る。だからと言って、人は「おカネのため」だけに働くものなのだろうか。

 2018年は「報酬」を巡る話題が花盛りの年だった。11月に突然逮捕された日産自動車会長(当時)のカルロス・ゴーン容疑者による特別背任事件は、報酬の過少記載が突破口だった。政府の資金を運用する官民ファンド、産業革新投資機構(JIC)を舞台にした経済産業省と経営陣の衝突も、報酬が高すぎるという首相官邸の横やりで経産省が態度を一変させたことが民間人取締役を激怒させ、9人がそろって辞表を叩きつける事態に発展した。

 AI(人工知能)やバイオテクノロジーなど先進分野で、一級の学者が日本の大学にやって来ないのは、報酬水準が低すぎるからだとの声も上がった。もはや日本の管理職の報酬は、中国企業の管理職よりも安いといった報道もあった。

 要は、日本の報酬体系がグローバルな仕組みから大きく劣後していることが様々な問題を引き起こしたわけだ。このままでは、優秀な人材はみな海外に逃げてしまう。日本は沈没してしまう、という識者の危機感は十分に理解できる。

 だが、おカネを出しさえすれば優秀な人材が集まるのか、高い報酬さえ保証すれば、人は全力で働くのかと、ふと考えてしまう。逆に言えば、安月給にもかかわらず、全力で働く人は否定されるのか。

 報酬はその人の評価のひとつのモノサシであることは間違いない。日産自動車を破綻の危機から救ったゴーン容疑者は、10億円を超す年間報酬をもらっても飽き足らなかった。自分の働きには、もっと価値があると信じていたに違いない。

 かつてゴーン氏が絶頂の頃、会社を立て直した大手製造業の経営者に「いったい〇〇さんは会社の株価を何倍にしたのか」と聞いたと言う。これに日本人社長が「X倍だね」と答えると、ゴーン氏はこう言い放ったそうだ。「それなら報酬を今の10倍もらうべきだ」。

 日本人社長は苦笑交じりに「あんたのような顔をしていたら、もらえるんだが」と答えたそうだ。つまり、外国人だったら高い報酬を得られても、日本人経営者はそこまで貪欲になることは許されないというわけだ。

 何事にも中庸を求める日本人は、巨額の報酬をもらって当然だとはなかなか言えない。自分だけ多額の報酬を得れば、世間の目が許さない。そんな意識が日本の経営者には根付いている。

 それでもここ10年で、日本の経営者の報酬は大幅に上昇した。1億円以上の報酬開示が始まった2010年に、1億円以上の報酬を得る役員がいた会社は166社で、289人だった。それが、2018年には240社538人へと大きく増えた。かつては1億円以上もらうのは創業社長と相場が決まっていたが、最近では総合商社や大手電機メーカー、金融機関まで幅広い業種で1億円プレーヤーが誕生している。

おカネよりも社会貢献が重要だという風潮も
 では、こうした経営者のキャリアパスや働き方も欧米型に変わったのか、というとそうではない。欧米のCEOは業績が悪ければすぐにクビになる。取締役も成果を上げられなければ席はなくなる。高い報酬はそうしたリスクへの対価とみることもできる。

 ところが、日本の経営者は報酬が低い代わり、よほどのことがない限り、途中でクビになることはない。終身雇用が前提のサラリーマンとして会社に入り、役員となることで定年後も会社に残ることができた人がほとんどだ。身分保障があって突然失業するリスクがないのだから、報酬が低くても仕方がないとも言える。

 そういう意味では、最近のサラリーマン社長が数億円の年俸を得るようになったのは「いいとこ取り」とも言える。しかも、デフレに苦しんだ日本企業を立て直して、高額報酬をもらっている経営者たちの多くは、リストラによって人員削減をした結果、業績を回復させた。高額報酬を得る代償に、多くの人たちの涙があったとみることもできる。それでも業績を回復させたのだから、高額報酬を得るのは当然だと言い切れるのかどうか。

 もちろん、高い報酬をもらわずに働くのが日本人の美徳だなどと情緒的なことを言うつもりはない。今後、日本企業の報酬体系や雇用の仕組みは、どんどん欧米型になっていくだろう。国境を越えて人が動き回り、企業も世界中から優秀な人材を集めるようになると、人事制度や報酬がグローバル水準にサヤ寄せされていくのは当然のことだ。とくにグローバルな競争にさらされる分野の企業や組織では、グローバル水準の報酬を支払うのが当然になるだろう。

 それに伴って終身雇用や年功序列賃金という「日本型」と言われてきた仕組みは大きく崩れていくに違いない。実際、今年の国会で成立した「働き方改革関連法」では、時間によらない報酬体系を認める「高度プロフェッショナル制度」が導入された。これは日本型雇用制度に風穴を開けることになるに違いない。

 日本型の雇用制度は、悪いところばかりではなかった。だが、経済成長が止まり、デフレが企業を襲った中で、年功序列の人事制度が、企業の成長を阻害する要素になってしまった。日本企業が成長の壁にぶつかり、それを突き破るにはグローバル水準の仕組みに変わらざるを得なくなった、ということだろう。

 それでも、日本の会社や組織のすべてがグローバルな仕組みに変わる必要があるのかといえば、そうではないのではないだろうか。企業によっては終身雇用を続け、定年もなく、生涯働ける仕組みを取り続けてもよいのではないか。世界をみても欧州では生涯1つの会社で働くという人たちもたくさんいる。

 多額の報酬を払わなければ優秀な人材が来ない、というのは、グローバルに競争する企業や組織には当てはまるが、そうした日々競争を求められる働き方は嫌だ、という人たちもいる。安月給でも自分のやりたいことをしたいという人はいるのだ。

 学生や社会に出たての若者と話していると、最近は「やりがい」や「社会のため」に働きたいという声を多く聞く。おカネよりも社会貢献が重要だと言うのは最近の風潮で、世の中全体が「食うに困る」ことがなくなったことが要因のひとつのように思う。まさに、衣食足りて礼節を知る、ということだろう。

 雇用制度や報酬体系がひとつである必要はない。労働基準法という単独の法律でグローバル企業から町の商店までを縛ろうとするから無理がくる。労働基準法Aと労働基準法Bがあって、どちらを採用するか企業が決め、それを働く側が選択する。ガリガリのグローバル基準で働き高い報酬を得るのか、報酬は低くてもやりがいのある仕事をするのか。それこそまさに多様な働き方ではないだろうか。