現代ビジネスに3月14日にアップされた拙稿です。オリジナルページ→
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/63500
奇妙な日経記事
東日本大震災から丸8年が経過した。東京電力福島第一原子力発電所事故はいまだ終息するメドが立っておらず、日本のエネルギー政策に影を落としたままになっている。
震災があった3月11日には新聞やテレビが8年たった今の福島の現状など様々な角度から検証記事を掲載した。
そんな中で、日本経済新聞3面の記事が目を引いた。「エネルギー改革 道半ば」という横見出しに続いて、「火力依存で高コスト 原発新増設、方針示せず」という見出しが立っていた。
2010年度には54の原子炉があり、原子力発電が全体の25.1%に達していた。それが2017年度は再稼働しているのは9基だけで、発電量全体の3.1%しか賄えていない、と指摘。その結果、石炭やLNG(液化天然ガス)といった火力への依存度が8割を超えているとしている。
そのうえで、「エネルギーのコスト競争力は日本経済の基盤だ」として、高コスト体質の見直しを求めている。
グラフには、貿易収支が示され、原発に代わって火力を増やした結果、燃料輸入が急増したため、2011年以降の累計赤字が31兆円に上ったとしている。つまり、「コストの安い」原発に戻せといわんばかりの論調なのである。
大手重電メーカーなどが大口スポンサーで、伝統的な大企業経営者に近い日本経済新聞からすれば当然の主張とも言えるが、原発があたかも「低コスト」であるかのような書きぶりはミスリーディングだろう。表面的な燃料代だけでコストを比べ、事故処理にかかっている莫大な国民負担、電気料金への上乗せ負担を考えれば、低コストなどとは決して言えない。
なぜ、原子力発電が必要なのか。その時々に応じて経済産業省や資源エネルギー庁は説明を変えてきた。
資源がない日本が、いずれ埋蔵量がなくなる石油資源に依存するのは危険だという説明や、エネルギー自給率や安全保障上の必要論をからめた説明、他の電源に比べてコストが大幅に安いという説明、二酸化炭素排出がほぼゼロなので、温暖化対策に不可欠であるという説明などなど。
だが、そのいずれも安全性への不安を訴える反原発派、脱原発派の人々を納得させる水準には達していない。
安倍政権は議論を避けている
この記事で共鳴する点は、「原発は国の方針を改めて明確にする必要がある」としている点だ。
政府のエネルギー基本計画では、「可能な限り原発依存度を提言する」としながら、「世界で最も厳しい水準の規制基準に適合すると認められた原子力発電所の再稼働を通じて、(原子力発電の比率を2030年に)24%とすることを見込む」としている。
現状のままでは到底、この水準は達成できないのは明らかだが、玉虫色というか、原発推進派にも反対派にも良い顔をする表現を計画に書き込んでいる。国民を二分するような議論をあえて避けているとみていいだろう。
「今の安倍政権は将来、原発をどうするのか、本気で議論する気がまったくない」と資源エネルギー庁で原発政策に携わって来た幹部OBは言う。日経の記事にも世耕弘成・経産相の会見コメントが登場するが、「原子力政策に関して、国民からまだ十分な理解を頂いているとは思わない。不断の活動を続けていかなければいけない」という優等生発言である。
安倍内閣が高い支持率を維持している背景には、こうした国民を二分しかねない問題については議論を避けていることだ。
原発について「安全性が確認されたものから順次再稼働させる」とは言っているものの、原子力規制委員会に任せていることもあって、なかなか再稼働が進まない。一方で、原子炉の新増設やリプレース(老朽原発の建て直し)については一向に方針を示さない。
日本では、原発は稼働から40年で廃炉するルールになっている。申請すれば1回に限って20年延長することができるものの、安全性の検査を通すために追加の安全対策などが必要になるケースも多く、40年での廃炉を決断する電力会社も少なくない。
つまり。40年たったところから、どんどん廃炉が進んでいくことになるわけだ。新増設やリプレースを議論しないということは、緩慢なる脱原発を選択していることになる。
だが、国民議論なしに「脱原発」を決めていく、というのも問題だろう。
ドイツ・メルケル首相の決断
ドイツのアンゲラ・メルケル首相は東日本大震災をきっかけに、それまでの原発擁護の姿勢を180度転換し、脱原発を決めた。
「3.11」の1日前にドイツ在住のジャーナリストである熊谷徹さんがフェイスブックで、メルケル首相の2011年6月9日の連邦議会での演説の一部を引用して、当時の「転向」の背景を解説していた。以下がその引用部分だ。
新しい知見を得たら、必要な対応を行なうために新しい評価を行なわなくてはなりません。私は、次のようなリスク評価を新たに行ないました。原子力の残余のリスク(Restrisiko)は、絶対に起こらないと確信を持てる場合のみ、受け入れることができます。
しかしその残余リスクが実際に原子炉事故につながった場合、被害は空間的・時間的に甚大かつ広範囲に及び、他の全てのエネルギー源のリスクを大幅に上回ります。私は福島事故の前には、原子力の残余のリスクを受け入れていました。高い安全水準を持ったハイテク国家では、残余のリスクが現実の事故につながることはないと確信していたからです。しかし、今やその事故が現実に起こってしまいました。
確かに、日本で起きたような大地震や巨大津波は、ドイツでは絶対に起こらないでしょう。しかしそのことは、重要な問題ではありません。福島事故が我々に突きつけている最も重要な問題は、リスクの想定と、事故の確率分析をどの程度信頼できるかという点です。なぜならば、これらの分析は、我々政治家がドイツにとってどのエネルギー源が安全で、価格が高すぎず、環境に対する悪影響が少ないかを判断するための基礎となるからです。
私があえて強調したいことがあります。私は去年秋に発表した長期エネルギー戦略の中で、原子炉の稼動年数を延長させました。しかし私は今日、この連邦議会の議場ではっきりと申し上げます。福島事故は原子力についての私の態度を変えたのです。(後略)」
そのうえで、熊谷氏は「彼女は一時科学者として働いた人間らしく、多言を弄して弁解はせず、原子力エネルギーについて、己れの知覚能力、想定能力の限界を正直に告白したのである」と評価している。
福島の事故を巡っては、津波の高さが想定内だったか想定外だったか、と言った議論が繰り返され、当時の経営陣に対する責任追及が今も続いている。だが、想定を上回る事態が実際に起きて事故が発生したことに、メルケル首相は科学者として政治家として決断を下したわけだ。
世論誘導ではない議論を
「時が来れば忘れる」「臭いものには蓋」というのは日本人の性癖かもしれない。だが、真正面からの議論を避けてなあなあで済ました結果、国民が許容できないリスクを取らされているのかもしれない。
日経新聞の記事でも「原発に批判的な世論が多い中で正面からの議論を避けてきた」と指摘している。
議論を呼び起こそうとする記者の意気込みは分かるが、その次に出て来るコメントがいけない。経団連の中西宏明会長の「再生可能エネルギーだけで電力をまかなえるとは思っていない。どんどん(再稼働を)やるべきだ」という発言を掲載している。
中西氏は財界のトップかもしれないが、原発を事業として手掛ける日立製作所の会長だ。モロに利害関係者ではないか。エネルギーコストを議論するきっかけにする産業界の声としては不適格だろう。
原発の事故リスクについては経営者の中にも様々な意見がある。そうした声をきちんとひろったうえで議論を始めないと、答えありきの世論誘導になりかねない。