海の安全を守る高速艇を造る東京で唯一の造船所

雑誌Wedge 2022年10月号に掲載された拙稿です。Wedge ONLINEにも掲載されました。ぜひご一読ください。オリジナルページ→

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 東京から千葉方面へ東京湾岸を走るJR京葉線。東京駅の地下ホームを発車して5分ほど走った電車は地上に出ると、すぐに運河を渡る。車窓の右手、その運河沿いに見える建屋には「墨田川造船株式会社」と書かれている。こんな都心からすぐのところに造船所があるのか……。


 「東京にはいくつも造船所が残っていますが、修繕だけをやっているところばかりで、船の新造をメインとしているのは、うちだけになりました」と、同社の石渡秀雄社長は語る。

 今や、東京唯一の新造船造船所と言える存在になった墨田川造船の歴史は古い。1913年(大正2年)に、東京帝国大学造船学科出身の高橋新八男爵が、日本初の洋式船工場として東京・向島で創業。64年(昭和39年)の東京オリンピック後、現在地に移った。

 創業当初から「高速」にこだわり、高橋男爵が考案した「高橋式つかさ丸型」の船型の特許を取得、高速艇を専門に建造してきた。昭和のはじめには、時速50㍄(約80㌔メートル)の航行速度を記録して大きな話題になった。戦時中は海軍省の指定工場となり、小型高速艇だけでなく、ランチやカッターなどを大量に受注、生産していた。

創業以来「高速」にこだわり続ける

 第二次世界大戦の敗戦で海軍からの注文は消える。「戦後の一時期は家具を製造して、何とかしのいだと伝わっています」と石渡社長。48年(昭和23年)に海上保安庁が発足すると、巡視艇2隻を受注、以来、海上保安庁の船の建造が柱になった。民間の船も合わせて年間で平均5〜6隻を建造する。海上保安庁の巡視艇に加え、消防艇や警察の警備艇などスピードが求められる船を得意とする。この他、民間の観光船やODA(政府開発援助)での外国向けの船舶も手がけるが、官公庁向けが売り上げの6割を占める。

 言うまでもなく海上保安庁は日本沿岸の海の安全を守る役目を担う。その際、重要になるのは船のスピードだ。創業以来「高速」にこだわり続けた墨田川造船の真骨頂である。高速航行を可能にするのは、エンジンの性能だけでなく、抵抗を減らす船型や船の重さなど、総合力がものを言う。船型は創業以来のノウハウの塊だし、軽量化にも工夫を凝らしてきた。かといって頑丈さを犠牲にすることもできない。


 墨田川造船の工場には外国人労働者の姿は1人もいない。日本の製造現場は今や、技能実習生など外国人の働き手に支えられており、外国人の方が多い工場も少なくない。そんな中で、異例ともいえる光景だ。というのも、造船工場の中は、いわば機密だらけ。国際情勢が緊迫する中で、情報の流出にことさら慎重になり、納入先官庁に指示されているわけではないが、従業員などの採用にも気を使う。

 現在、社員は約50人。他に作業に加わる協力会社などの職人が50人ほどいる。全員の顔が分かる規模の家族的な雰囲気の職場だ。社員の多くは船や海が好きで入社してきた。船造り、モノづくりにこだわりを持つ職人肌の人も多い。

 「船造りを担う人材を1人でも多く育てるというのが創業以来の当社の姿勢です」と石渡社長は言う。どの部門に配属されても、船造りの現場に関わるのが墨田川造船の「伝統」。昔は、営業を終えて帰社すると、作業服に着替えて造船工場の作業を手伝うのが当たり前だった。「大手に行けば設計者は設計だけ、業務の一部だけを担います。うちではゼロから船造りを知ることができる。何しろすべての仕事を経験することが重要だというのが当社の考え方なんです」と石渡社長。営業マンでも製造現場を知っているので、顧客から船の構造などを聞かれても答えられるというわけだ。

 石渡社長が学校を卒業すると、父親は当然、墨田川造船に入社すると思っていたと言う。実は石渡社長の祖父も父も墨田川造船の社長を務めた。祖父が5代目、父が9代目の社長である。会社自体は横浜倉庫の完全子会社で、石渡社長の家族が株主というわけではない。社内には、他にも父親から2代続けて役員になっている人もいる。職人が親の跡を継ぐように、親から子へと仕事を受け継ぐ。そんな会社だからこそ、家族的な雰囲気がつくり上げられているのだろう。

 父親の期待に反して、石渡社長は学校を出るとすぐに旅行会社に就職する。旅行の企画から営業まで。添乗員も務めたが、顧客ときちんと向き合うことの大切さが身に染みた、と言う。「どんな厄介なお客さんでもきちんとやるべきことをこなせば褒められる。逆に手抜かりがあれば、叱られる」

 父親から、そろそろ手伝えと言われて入った墨田川造船でも、当時、教育係の常務だった10代目の社長は「めちゃくちゃ怖い人だった」と石渡社長は振り返る。いいかげんな仕事をすれば頭から怒鳴られた。旅行会社時代に学んだ、顧客に誠実に向き合うことの大切さは、墨田川造船でも生きたわけだ。

 1999年に入社すると資材調達の部門からスタート、その後、営業に移った。今のような「働き方改革」全盛の時代には考えられないが、営業から帰ると作業服に着替えて、深夜まで工場で働いた。溶接作業もお手のものだ。2013年に取締役に就任。その直後に10代目の社長が急死してしまう。9代目の父が再登板したものの、15年に石渡社長にお鉢が回ってきた。創業者から数えて12代目の社長である。

 20年には本社を建て替え、社員寮も作り直した。墨田川造船の造船技術を受け継ぐと同時に新たな時代を切り開く優秀な人材を確保するためだ。

これから船は大きく変わる

 「これから船も大きく変わります」と石渡社長。自動車で電気や燃料電池などが広がっているのと同様、船舶でも二酸化炭素(CO2)を出すエンジンから新しい動力に変える動きが急ピッチで進もうとしている。

 「30年には売り上げの半分が新しい動力に変わることを想定して、技術開発を進めています」と将来をにらむ。現状の電気モーターは出力が弱く、馬力も弱い。墨田川造船の命である「高速」をどう実現していくか。これからが正念場。それを担うのはひとえに人材である。

 毎年秋には、進水式を行う。工場内のスロープを台車に乗せた新造船が目の前の運河に向けて滑り落ちていく。船が水に滑り込むのはなかなかの迫力だ。お披露目の行事として、近隣の小学校の子どもたちや、工業高校の学生などを招待する。都心のすぐ近くにいながら、実際の造船所を見ることができる貴重な機会だ。

 進水を祝うだけでなく、1人でも多くの子どもや青年たちに、海好き、船好きになってもらいたい思いが背景にある。日本が「造船王国」と呼ばれなくなって久しい。だが、海に囲まれた日本を守るには、自ら高い造船技術を持ち続けることが重要だ。高速にこだわり、人材を育てることに力を注いできた墨田川造船の挑戦は続く。