「フィデューシャリー・デューティー」の衝撃 政府が本腰、金融機関のあり方を根幹から揺さぶる「新概念」

日経ビジネスオンラインに6月10日にアップされた原稿です→http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/238117/060900025/


資産運用の受託者が、委託者に対して負う責任

 「フィデューシャリー・デューティー」という言葉を聞いたことがあるだろうか。一部の金融界の人を除けば耳慣れないこの概念が、日本の金融機関のあり方を根幹から揺さぶろうとしている。

 フィデューシャリー・デューティーとは「受託者責任」と訳される概念で、資産運用を受託した者が、もともとの資産保有者、つまり資産運用を委託した者に対して負う責任を言う。運用会社など金融機関は、資産を預けた人の利益を最大化する事に務めるのが義務で、利益に反するような行動は取ってはならない、ということだ。

 安倍晋三内閣は6月2日、成長戦略の「日本再興戦略2016」を閣議決定した。第2次安倍内閣が発足して以降、4回目となる成長戦略の見直し版だ。IoT(インターネット・オブ・シングス)やビッグデータ人工知能の活用による新たな成長市場の創出と、人口減少による人手不足を克服するための生産性向上、新たな産業構造を支える人材強化の3つを課題ととらえ、様々な施策を盛り込んでいる。

 実は、そんな中に「フィデューシャリー・デューティー」という言葉が出て来るのだ。「活力ある金融・資本市場の実現を通じた成長資金の円滑な供給」という項目の具体策として、「フィデューシャリー・デューティーの徹底、長期安定的投資を支えるツールの整備、市場の公正性・透明性・安定性の確保といった論点について、金融審議会で検討する」とされたのである。しかも、「本年度中に一定の結論を得ることを目指す」と明記されている。

日本の金融機関は利益相反の行動を取っている

 そのうえで、「具体的な施策」として、以下のように書かれている。

 「金融商品の販売・開発に携わる金融機関に対しては、顧客(家計)の利益を第一に考えた行動がとられるよう、また、家計や年金等の機関投資家の資産運用・管理を受託する金融機関に対しては、利益相反の適切な管理や運用高度化等を通じ真に顧客・受益者の利益にかなう業務運営がなされるよう、フィデューシャリー・デューティーの徹底を図ることとし、これにより、国民の安定的な資産形成への貢献を促す」

 何だ、当たり前の事ではないか、と思われるかもしれない。金融機関が顧客の利益を第一に考えるのは当然で、何を今さらといった印象を受けるだろう。だが、政府がわざわざこんな事を言うのは、実際のところ、日本の金融機関は顧客の利益を第一とは言えない利益相反の行動を取っている、ということに他ならない。

 フィデューシャリー・デューティーといった場合、まっ先に問題になるのが運用会社の姿勢だ。運用会社が顧客を向いて運用方針をきちんと決めているのかどうかだ。もう20年以上前の話だが、大手証券系の投資信託委託会社が、保有していた株式をいったんすべて売却して再び買い戻す動きをしたことがある。資産を「一回転」させたわけだが、それによって親会社の証券会社に手数料が落ちた。要は親会社の決算対策として、預かっている投信の資産を使ったわけだ。もちろん、その分は投信を持つ顧客にツケが回る。

自社グループの商品がベストとは限らない

 さすがに今ではそんな露骨な事はできないが、今でも似たような事はある。銀行が、自社グループの運用会社の投信を売るのは、日本では半ば当たり前だ。だが、フィデューシャリー・デューティーが課されている欧米では、まずグループ会社の商品を売ることはしない。自社のグループの商品を売れば手数料が稼げるが、資産運用を受託している顧客の利益を第一に考えると、自社グループの商品がベストとは限らない。つまり、そこに利益相反があるわけだ。

 最近ではだいぶ収まったが、銀行の窓口担当者は、来店した高齢者にせっせと自社グループの投信商品を売っていた。預金として銀行口座に置いておいてもほとんど金利が付かないので、株式などで運用する投信がお薦めです、というわけだ。

 話に乗った高齢者が預金の500万円を投信に移すと、それだけで銀行には手数料収入が入る。時には数%が瞬時に銀行に入るわけだ。それは本当に、顧客の利益を第一に考えた末の行動なのか、それとも手数料を稼ぎたい銀行側の都合なのか。利益相反が起きるわけだ。

本気で「受託者責任」を問えば、金融機関に大激震が

 つまり、本気でフィデューシャリー・デューティーを問うと、これまでの金融機関の営業行動を根幹から見直さなければならなくなる。金融機関にとっては大激震なのだ。

 運用業界大手の三井住友アセットマネジメントは、2015年8月にいち早く「フィデューシャリー・デューティー宣言」を出し、アクションプランの進捗状況を半年ごとに公表してきた。

 顧客への情報開示の徹底などを行った結果、業界全体の投信手数料の透明化につながり、その結果、業界内の競争が激しくなり、平均的な手数料率が下がったのである。業界には、新興国の株式に投資するファンドなどで驚くような高い手数料を取る商品があったが、手数料を分かりやすく顧客に示すようになって、そうした「暴利」が許されなくなったのだ。

 フィデューシャリー・デューティーを徹底すれば、顧客を「食い物」にすることは不可能になる。金融機関からすれば、短期的には業績が厳しくなるわけだ。

 フィデューシャリー・デューティーは欧米では歴史的に定着した概念だが、日本で注目されるようになったのは最近のことだ。2014年夏に金融庁が出した「平成26事務年度 金融モニタリング基本方針」の中に明記された。そこにはこう書かれていた。

 「家計や年金、機関投資家が運用する多額の資産が、それぞれの資金の性格や資産保有者のニーズに即して適切に運用されることが重要である。このため、商品開発、販売、運用、資産管理それぞれに携わる金融機関がその役割・責任(フィデューシャリー・デューティー)を実際に果たすことが求められる」

「欧米では、資産運用会社が親会社からの独立性を保っている」

 安倍内閣はここ数年、コーポレートガバナンスの強化を政策のひとつの柱にしている。社外取締役の導入などが目立つが、そのほかにも機関投資家の行動指針を示した「スチュワードシップ・コード」や、企業経営のあるべき姿を示した「コーポレートガバナンス・コード」の導入などを行った。中でもスチュワードシップ・コードの導入は、生命保険会社など機関投資家の行動を一変させつつある。要は、保険契約者の利益を第一にした運用をせざるを得なくなったのだ。フィデューシャリー・デューティーはそれをさらに徹底させる役割を担うことになる。

 三井住友アセットが設置した「フィデューシャリー・デューティー三者委員会」の委員長を務める岡村進・人財アジア社長は、「欧米では、資産運用会社が親会社からの独立性を保っているのが一般的だ」と語る。金融機関が運用商品を販売する場合も、グループの資産運用会社の商品を顧客に奨めず、他の運用会社の商品と並べて顧客に選択させるケースが多い、という。フィデューシャリー・デューティーを徹底し、顧客の利益を第一に考えれば、必然的にそうなるわけだ。

 成長戦略に「フィデューシャリー・デューティー」が明記されたことで、今後、金融グループ内で利益相反を防ぐにはどうするか、具体的な議論が始まる。結論はまだ見えないが、日本の大手金融グループ内の事業の再編に結び付く可能性も出て来る。口では「お客様のため」と言いながら、自社の利益を第一に考えてきた金融機関が、立脚点を根本から問い直されるフィデューシャリー・デューティーの破壊力は侮れない。