働き方改革、労働条件改善の“アメ”から着手へ 痛みを伴う改革は後から

日経ビジネスオンラインに9月2日にアップされた『働き方の未来』の原稿です。オリジナルページ→http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/021900010/090100022/?P=1

参院選までの「ポーズ」ではなかった

 安倍晋三内閣が「働き方改革」に本腰を入れる姿勢を鮮明にしている。安倍首相自身は働き方改革を「今後3年間の最大のチャレンジだ」と繰り返し述べてきたが、周囲では参議院選挙終了までの「ポーズ」との見方が根強かった。働き方改革で掲げた「同一労働同一賃金」や「最低賃金の引き上げ」は、もともと民進党など野党勢力労働組合が主張してきた政策だけに、選挙向けの「争点潰し」と見る声が多かったのだ。ところが、選挙に圧勝した後も、安倍首相は手綱を緩める気配を見せない。

 政府は9月中旬にも安倍首相を議長とする「働き方改革実現会議」を設置する。加藤勝信働き方改革担当相や塩崎恭久厚生労働相のほか、世耕弘成経済産業相など関係閣僚のほか、榊原定征経団連会長や神津里季生・連合会長、経済学者などの有識者が加わる。

残業時間規制に着手へ、「36協定」見直しも

 加藤担当相は8月28日のNHK日曜討論で「残業の規制は労働基準法の中にあるが、労使協定で上限なく決められる仕組みにもなっている。規制の在り方について、しっかり再検討したい」と述べ、残業時間の上限規制に取り組む姿勢を示した。

 労働基準法は労働時間について、1日8時間、1週40時間(32条)、週1回の休日(35条)という原則を定めている。一方で、36条で「労使協定をし、行政官庁に届け出た場合においては、その協定に定めるところによって労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる」としており、残業を許容している。これがいわゆる「36(さぶろく)協定」である。これが日本企業の恒常的な残業や長時間労働を許しているとして、見直しに言及したのである。

 働き方改革の目玉としてはすでに「同一労働同一賃金」の実現が掲げられ、「ガイドライン」を作る有識者会議がスタートしている。また、安倍政権発足以来、最低賃金の引き上げにも前向きで、安倍首相は毎年3%程度引き上げ、将来は1000円程度にするよう求め、関係閣僚に環境整備を指示している。実際、今年度の見直しでは全国平均で3%、24円引き上げられ、822円となった。

「アメ」からスタートし、その後…

 こうした賃金引上げや残業時間に上限を設けることは、働く側からすれば喜ばしい。働く時間が短くなり、給料も増えるからである。

 だが、一方で、企業からすれば、大幅な負担増になる懸念がある。賃金引き上げはコスト上昇に直結するし、残業に上限ができれば人手不足に拍車がかかる可能性もある。実現会議の場でも企業経営者からは慎重な意見が出る可能性が大きい。

 単に働く人たちの待遇だけが改善されて、企業の生産性がまったく変わらなかったとすれば、企業収益は低下する。人々が働かなくなって日本企業の収益力が落ちてしまえば、元も子もない。本当の意味で「働き方」を見直し、仕事の仕方を効率化することで、生産性を上げようというのが改革の本来の趣旨であるはずだが、なかなかその点は強調されない。働き手にとって「アメ」のような政策ばかりが正面に掲げられている。

今回は搦め手から攻める

 おそらく「アメ」を前面にぶらさげないと、「働き方改革」などできないと官邸周辺は思っているのだろう。まずは働き手の待遇改善を強調するところから、改革に着手しようと考えているようだ。というのも、安倍内閣発足直後の失敗があるからだ。一定給与以上のホワイトカラー層の労働時間規制を外す「ホワイトカラー・エグゼンプション」を打ち出したところ、野党や労働組合から猛反発をくらい「残業代ゼロ法案」のレッテルを貼られた。結局改革は進まずにとん挫した。労働分野は安倍首相にとって最大最強の「岩盤」になった。

 そう考えた官邸は、今回は搦め手(からめて)から攻める方針に変えたのだろう。まずは労働条件の改善という「アメ」からスタートし、そのうえで、生産性向上に直結するような規制改革を行おうとしているのだろう。

残業を一律に規制すれば、幹部候補育成上の障害に

 残業時間に上限を設けた場合、管理職でない若手社員はすべて、働ける労働時間が制限されることになる。幹部候補生も工場で働く現場のワーカーも今の「正社員」という枠組みの中では同じ扱いになる。だが、海外の企業では、若手を始めから経営職として採用するため、彼らは猛烈に働く。日本の若手よりもはるかにハードな仕事をこなし、生産性の高い働き方をしている。労働時間も決して短くない。彼らは現場のワーカーとは「別枠」なので、そもそも労働時間で評価されたり縛られたりしていないのだ。

 正社員に一律に上限を設定すれば、企業は、幹部として育てて行こうという人材をフルに使えなくなる。時間では成果を測れない知的労働集約型の職種では、成果が上がらないのに時間で縛られて仕事がこなせないという事態に直面する可能性が出て来る。自由にとことん働ける「別枠」を設けなければ、日本は海外の競争相手と比べて大きく劣後することになるだろう。つまり、上限規制の議論はいずれ「別枠」を設けるという議論につながるのだ。ホワイトカラーエグゼンプションの議論に入っていけるというわけだ。

これまで労働政策を決めるのは「労政審」だった

 働き方改革実現会議で、「残業の上限規制」について方針を決めることになれば、画期的な事になる。というのもこれまで労働政策を実質的に決めるのは厚労省に設置されている「労働政策審議会労政審)」だった。この審議会は労働側と使用者側、それに公益代表の「三者」から同数の10人ずつが出され、そこで合意を得ることが前提だった。いわゆる「三者合意」でこれが労働政策を決める根幹として長年守られてきたのだ。実はそこには「政治」の代表は入れない。このため、いくら首相が「労働改革」と旗を振ってみたところで、審議会が動かなければ何も進まなかったのである。

 実現会議で決めた方針を審議会で議論するにしても、審議会の権限が大きく変わることは間違いない。これまでの三者合意を前提にした労政審は、過去の積み重ねの上に成り立っており、大胆な改革は事実上不可能だった。実現会議が大方針を決める「場」になれば、日本の労働政策の決定方式が根本から変わる。

労働政策決定が官邸主導に変わることへの抵抗も

 この点について最も敏感に反応しているのが日本共産党だ。「働き方改革 官邸主導」「実現会議、公労使3者構成崩す」と題した記事を、しんぶん赤旗が8月13日に掲げた。

 そこでは、「労働政策を公労使3者の合意を得て進める『3者構成原則』を骨抜きにして、政府主導で決定する狙いが鮮明です」と分析。また、「労政審では厚労省が事務局を務めますが、この点でも専門の厚労省を排除して官邸主導で進める構えです」としており、厚労省内の左派官僚の意見を色濃く反映しているとみられる。労政審を中心とした従来の政策決定が官邸主導に変わることに明らかに抵抗している。

企業の収益回復のための労働改革は待ったなし

 確かに、まず労働者寄りの政策で実現会議が方針を決める母体としての実績を作れば、次に労働者に厳しい改革もこの会議で行うことが可能になる、と見ることもできる。三者合意の労政審ではなかなか難しかった抜本改革が、政府主導の実現会議でできるようになるかもしれないのだ。

 安倍内閣が、こうした「う回戦術」を狙っているのかどうかは分からない。だが、アベノミクスの中で掲げてきた「稼ぐ力を取り戻す」という基本方針が変わってないとすれば、企業に収益性を回復させるための労働改革は待ったなしということになる。労働者の待遇改善というアメの後には、既得権を持った「正社員」や「労働組合」には厳しい、痛みを伴う改革が待っているのかもしれない。