政権の“意思”と人手不足を追い風に 目前に迫る「最低賃金1000円時代

月刊エルネオス9月号(9月1日発売)に掲載された原稿です。http://www.elneos.co.jp/

東京では最低時給九百三十二円

 最低賃金の大幅な引き上げが続いている。厚生労働省中央最低賃金審議会が七月二十八日に最低賃金改定の「目安」を塩崎恭久厚労相に答申。全国加重平均で二十四円引き上げて八百二十二円とした。これを受けて、各地の最低賃金審議会が答申を行い、各都道府県労働局長が地域別最低賃金を決定。十月上旬から適用される。
 今年度の目安の全国加重平均の引き上げ幅(二十四円)は、前年度の引き上げ幅(十八円)を大きく上回った。引き上げ率は三・〇%に達した。目安では全都道府県をABCDの四ランクに分け、「Aランク」(東京、大阪など五都府県)の引き上げ幅を二十五円、「Bランク」(埼玉など十一府県)を二十四円、「Cランク」(福岡など十四道県)を二十二円、「Dランク」(沖縄など十七県)を二十一円とした。東京はすでに東京地方最低賃金審議会を開き、二十五円引き上げて九百三十二円とすることを答申している。
 最低賃金の引き上げは安倍晋三内閣が政策の一つの柱として取り組んできた。アベノミクスを開始した二〇一三年以降、円安などによって企業業績は大幅に改善したが、それが給与の増加になかなか結び付いてこなかった。景気回復の恩恵を生活者の実感に結び付けるためには賃金の引き上げが不可欠だとして、安倍首相は経済界にベースアップなど賃金引き上げを求めてきた。その一貫として最低賃金の引き上げにも取り組んできた。アベノミクス→企業業績改善→給与増→消費増という「経済の好循環」を目指しているわけだ。

働き手不足が賃金上昇に拍車

 第二次安倍内閣が発足した一二年末以降、最低賃金の引き上げピッチは速い。全国加重平均では政権発足前の一二年度は七百四十九円だったので、引き上げ幅は四年で七十三円にのぼる。率にすると九・七%だ。最も高い東京都の場合、一二年度に八百五十円だったものが、毎年二%以上引き上げられ、四年で八十二円、率にして九・六%引き上げられた。
 安倍首相は昨年十一月の経済財政諮問会議で、最低賃金を毎年三%程度引き上げ、将来は一千円程度にするよう、関係閣僚に環境整備を指示していた。七月の目安で全国加重平均の引き上げ率が三・〇%になったのは、この首相の指示が大きく影響している。
 仮に毎年三%引き上げた場合、全国加重平均で一千円を超えるには七年かかる計算だが、東京都に限ってみれば三年後には一千円を超えることになる。最低時給一千円時代が目前に迫ってきたわけだ。
 本来、最低賃金の引き上げには経済界が強く抵抗する。なかなか引き上げが実現できないのはこのためだが、最近は反対の声が小さい。安倍首相がリーダーシップを発揮して引き上げを指示していることだけが要因ではない。急速に進んでいる人手不足が賃上げの背中を押しているのだ。
 東京など都市部での人手不足は深刻で、最低時給が引き上げられなかったとしても、人員を確保するために時給を引き上げざるをえない状態が続いている。特に外食チェーンコンビニエンスストアの深夜アルバイトなどは、時給を引き上げても人手が確保できない状況に直面している。店舗の店員を確保できなければ営業そのものが継続できなくなってしまうだけに、多少時給を上乗せしてでも人手を確保する動きが加速している。
 もちろん、背景には少子化がある。日本は本格的な人口減少時代に入ったが、若年層の労働人口の減少は著しい。従来はアルバイトの供給源だった学生の数が減り、人員確保を困難にしている。また、中国などからの留学生がその穴を埋めてきたが、中国人留学生も深夜の外食チェーンなどの仕事に就かなくなっている。中国人旅行者の増加を背景に、免税手続きの事務処理など、より給与が高く、肉体的にきつくない仕事へと人員がシフトしている。最近ではベトナムからの留学生が増加しており、アルバイト要員として期待されているが、引く手あまたの状態だ。

個人消費の底入れに期待

 こうした人手不足による賃金上昇はアルバイトやパートだけではない。派遣社員の給与も上昇が続いている。
 求人情報大手のリクルートジョブズのまとめによると、七月の三大都市圏(関東、東海、関西)の派遣社員の募集時平均時給は一千六百四十六円と、一年前の同じ月に比べて二・一%上昇した。時給がプラスになるのは三十八カ月連続で、〇七年の調査開始以来、最高の金額になったという。IT(情報技術)やサービス業での人手不足が深刻化し、派遣会社は時給を上げないと社員を集められなくなっている。
 厚労省が七月末に発表した六月の有効求人倍率(季節調整値)は四カ月連続で上昇し、一・三七倍になった。一九九一年八月の一・四〇倍以来、二十四年十カ月ぶりの高水準という。宿泊・飲食サービス業や建設業などの求人が増えている一方で、求職者は減っており、人手不足が一段と鮮明になっている。都会だけでなく、すべての都道府県で有効求人倍率が一倍を上回っており、人手不足は全国に波及している。
 こうした人手不足に伴って賃金の本格的な上昇が始まりそうな気配だ。政権が旗を振る最低賃金の引き上げも、企業経営者の間に賃金引き上げムードを生んでいる。
 足元では消費の低迷が続いているが、給与の増加が続けば、可処分所得も早晩伸び始めるのは確実。年金保険料の引き上げなど、社会保障負担が家計を圧迫しているが、それを上回って賃金が上昇してくるかどうかが、消費動向を大きく左右することになりそうだ。
 アベノミクスによって企業業績が回復しているものの、多くの国民はその効果を実感できないとしている。民進党など野党がアベノミクスは失敗だと断じる理由もそこにある。最低賃金の引き上げが呼び水となって給与の増加に結び付いてくれば、個人の間にも景気回復の実感が醸成されてくるに違いない。いましばらく時間はかかりそうだが、給与の増加によって低迷が続く個人消費の底入れにつながってくる可能性は十分にありそうだ。