過疎地を「宝の山」に変えるベンチャーを創業 奥田浩美さんインタビュー 「人生は見切り発車でうまくいく」

奥田浩美さんのインタビューです。あの勝間和代さんや第一生命保険のスーパーセールスレディ柴田知栄さんは仲良しだそうで、奥田さんによれば「3人で話すと勝間さんはほとんど話さない」のだとか。話さないというか、話せないぐらいのパワーをお持ちなのです。そのパワーがインタビューで伝わっているかどうか。ご一読ください。→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39667

人生は見切り発車でうまくいく

人生は見切り発車でうまくいく

IT分野の国際会議の事務局管理やイベントの運営を担う「ウィズグループ」の代表である奥田浩美さんが上梓した『人生は見切り発車でうまくいく』(総合法令出版)は、奥田さんのユニークな人生から紡ぎ出した一冊である。

「もう悩まない!」「『完璧』は目指さない!」と帯にあり、加えて「勝間和代さん推薦」とくれば、安っぽい自己啓発本かと疑いかねないが、実際は自らの経験に裏打ちされた具体的な話が詰まっている。奥田さんが2013年7月に徳島県美波町に作った「株式会社たからのやま」も「見切り発車」でスタートしたという。エネルギー溢れる奥田さんに「見切り発車」の人生を聞いた。

「たまたま就職した会社でIT関連をやらされた」のが起業のきっかけ
 問 ウィズグループはIT関連の国際会議などで事務局管理を請け負う会社として成功されていますが、もともとこの分野に関心があったのですか。

 奥田 いいえ、大学院を出てたまたま就職したのが国際会議の企画運営会社だっただけです。新入社員ということで重要な企業の会議は任せてもらえず、当時はまだ出始めだったIT関連の仕事をやらされた。(米マイクロソフト創業者の)ビル・ゲイツや(アップル創業者の)スティーブ・ジョブスらが日本にやってくるようになった草創期でしたが、可能性をすごく感じました。

1991年に貿易会社の出資でIT専業の国際会議会社を起業しました。まだパソコンもインターネットも普及していないころですが、米国で急速に広がっていたIT関連の大規模イベントが日本に上陸する手助けをしてきました。

 問 たまたま入った分野で起業までしてしまったわけですか。もともとは何をやりたかったのですか。

 奥田 親が教師で、地元の大学の教育学部に入っていましたので、そのまま教師になる路線が敷かれていました。親から与えられた課題をこなしているような気持ちがくすぶっていたのです。教員採用試験も受かり配属される学校が決まりかけていた時に、気が変わりました。インドに行こうと思いたったのです。

もちろん親は大反対です。当時、父親はムンバイの日本人学校の校長をやっていました。説得するためにムンバイ大学の社会福祉修士課程に行くと言い、何度も電話をかけ、何とか許しを得たのです。インドでは週3日地元のソーシャルワーカーに付いて歩くフィールドワークをしました。価値観の崩壊というか多様性の受容が不可欠だということを身をもって学びました。

2年目はマザーテレサが作った施設に行きました。当初は社会福祉の仕事に就こうかとも考えたのですが、教師を捨てたのに公務員になるというのも変だと思い東京に出たのです。そこでたまた会社に出会ったわけです。

原点は「ITで世の中を幸せにする」
 問 貿易会社と設立した会社を辞めて今度は自分で起業したそうですね。

 奥田 娘の1歳の誕生日にウィズグループを立ち上げました。2001年のことです。それまでの会社も成功していたのですが、深夜まで働いて家庭を犠牲にするような仕事の仕方に疑問を感じていました。そこで、自分がどこにいても仕事ができるような魔法使いのようなグループを作ろうということでウィザード(魔法使い)のウィズを社名にしました。

女性が働きやすい会社にしようと初めから思っていました。また、ちょうどITバブルの絶頂期で、どうも腑に落ちないものを感じていたのです。

また、この業界に入って時に思った「ITで世の中を幸せにする」という自分自身の原点をもう一度見つめ直してみようと思ったのです。自分だけが出資する会社にしました。もといた会社はITの同時通訳サービスに強みをもっていたため、ウィズグループはもっとイベントのマネジメントに特化することにしました。大工の棟梁というか、一種のプロデューサー業ですね。

事業が軌道に乗ってからですが、ただイベントをやるだけではなく、スタートアップ企業を育てる、起業家の場づくりのようなことを心掛けました。

 問 2013年に3度目の起業をされた理由は?

 奥田 娘の中学受験が終わった事が1つのきっかけです。また、六本木や渋谷の起業家と長年付き合ってきましたが、少し地方を回ってみたら、あまりの落差に驚いたんです。エネルギー格差とでも言いましょうか。

そこで2012年に「finder」というメディアをウェブ上に立ち上げました。離れた地域に住む人のエネルギー交換を目指す「プロジェクト&メディア」サイトという位置づけです。各地域の面白い取り組みや担い手をビジュアル中心に伝える一方で、各地域の事情に合わせた活性化支援の企画を立案・実行することにしました。

 問 それはウィズグループでやっていたのですね。

 奥田 はい。やっているうちに、伝えるだけでは変わらないということを痛感するようになりました。そこで、実際にプレーヤーになって産業を創造し雇用を生むような存在になろうと考え、「たからのやま」を設立したのです。2013年7月のことです。

「未来への出張」
 問 なぜ徳島県美波町なのですか。

 奥田 過疎化が凄い勢いで進んでいます。女性が活躍できる雰囲気はないため、若い女性はどんどん都会に出て行ってしまう。高齢化という観点では未来の最先端の場所と言うこともできます。地方の高齢化が進んだ地域に出張することを私は「未来への出張」と言っています。高齢化は全国でどんどん進んでいくわけですから、今はまだ高齢化率が低くてもいずれはその地域と同じようになります。

 問 どんな事業を始めたのですか。

 奥田 町中に「ITふれあいカフェ」を作りました。地域の人がスマートフォンタブレットに気軽に触れることができる場を提供し、そこで得られた知見をIT企業などにフィードバックするなど実証実験の場にしています。最終的には、地域の高齢者とメーカーが共同で新製品開発を行う場になればと思います。

また、地域の情報発信支援や、地域での創業支援の場にしていきます。まあ、たからのやまも見切り発車で作ったので、どんどん進化していきます。

 問 『人生は見切り発車でうまくいく』はどんな人たちに読んでもらいたいのですか。

 奥田 読者層は広いと思いますが、中でも20歳代半ばの人たちが読みやすいように書いたつもりです。

人生は見切り発車でうまくいく

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