「百年安心」がウソだと大騒ぎする前に 百歳まで安心に生きられる制度を議論せよ

ビジネス情報誌「エルネオス」の7月号(7月1日発売)『硬派経済ジャーナリスト磯山友幸の《生きてる経済解読》』に掲載された原稿です。是非お読みください。

 

エルネオス (ELNEOS) 2019年7月号 (2019-07-01) [雑誌]

エルネオス (ELNEOS) 2019年7月号 (2019-07-01) [雑誌]

 

  今の年金制度では、老後は二千万円の赤字という金融庁の金融審議会・市場ワーキンググループの報告書にあった「試算」を巡って、永田町で醜い争いが続いている。金融担当大臣でもある麻生太郎副総理兼財務相に至っては、報告書を全部読まずに答弁するは、自分は年金をもらっているかどうかも関心はないは、大いに男を下げた。しまいには報告書の受け取りを拒否し、「なかったこと」にしようという態度に、国民は大いにシラケている。
 一方で、この報告書で政府を追及しようという野党も情けない。政府は「二千万円の赤字」を隠そうとしているとか、年金は「百年安心」と言ってきたのはウソだったとか、とにかく七月の参議院選挙を前に、少しでも安倍晋三内閣にダメージを与えようという姿勢がみえみえだ。多くの国民は、そんなアジテーションに乗るほどバカではない。与野党とも政治家は国民をナメている。
 政府与党が言い続けてきた現行制度の「百年安心の年金」とは、二〇〇四年の年金制度改正で、マクロ経済スライドという仕組みを導入し、これによって年金制度自体は壊れないとしたものだ。多くの人は忘れているが、厚生年金の保険料は二〇〇四年から二〇一七年まで毎年引き上げられ、「上限」の一八・三%(労使折半)になった。また、基礎年金の国庫負担も二分の一に引き上げられたほか、政府が持っていた「年金積立金」百四十七兆円を取り崩し、百年後に一年分の年金支給額に相当する二十五兆円が残るようにするとした。
 一方、マクロ経済スライドは、財源の範囲内に給付水準を自動調整する仕組みだ。政府は当初、この見直しによっても、現役サラリーマン世帯の平均所得の五〇%を支給することができるとしていたが、実際には難しい。「財源」である年金保険料を支払う現役世代が予想以上に減れば、給付は減っていくことが明らかなのだ。
 つまり、百年安心は、制度が百年安心なのであって、百年安心して生きられる年金がもらえると言っているわけではない。これは与野党議員でも年金制度を少しでも勉強したことがあれば、知っているはずのことだ。

超富裕高齢者も含めた
「平均」は庶民感覚より上振れ

 では、「二千万円の赤字」はどうか。
 問題になった金融庁の報告書は、年金額の過不足を「試算」するためにまとめられたものではない。年金だけで十分な生活はできないということを前提に、老後に向けた資産形成や金融資産の運用を考えましょうと訴え、そのための制度整備を求めている。毎月五万四千五百二十円足らないというのは、あくまで「前段」で、しかもそれは厚生労働省の試算にも使われたものだった。報告書を作った委員からすれば、「いやいや、言いたいのはそこではない」ということなるに違いない。
 しかし、毎月五万四千五百二十円、三十年で二千万円という「赤字」の数字自体、乱暴な試算だ。これは総務省の家計調査の高齢者世帯の「平均支出」と、年金の「平均」支給額を単純比較したもの。あくまで、実際に高齢者世帯が使っている金額の「平均」なのだ。平均というのは猛烈に消費している富裕高齢者の消費も含まれているから、庶民感覚からすれば、大きく上振れしている。
 六十歳の平均貯蓄額は二千九百万円だから、「平均」で見れば二千万円の赤字は何ら問題ないということになるが、これも「平均」のマジックで、六七%の人は二千万円以下。四人に一人は百万円以下である。
 多くの国民は、もらう年金だけで豊かな老後生活を送れるなどとは思っていない。だから、高齢者の貯蓄額が世界有数の水準にまで積み上がっているのである。家計消費の「平均」は全体の中心的な水準である「中央値」よりも高いが、「豊かな老後」を送ろうと思えば、二千万円でも足らない、ということになる。一方で、今の年金だけでも十分にやっていけるという高齢者もいる。庶民の本音からすれば、「収入に合わせた生活を送るしかない」というところで、年金だけに依存しているわけではない、と考えている人も多いだろう。元気な間は働き続けて、少しでも収入を得る、という人も少なくない。現在六十五歳以上で働いている就業者は、八百万人を超えている。
 ただし、問題は、「自助努力」だけで十分な生活を送ることができない人たちをどう救っていくか、という点だ。いわゆる「公助」である。年金以外に蓄えや収入の道がない人や、年金制度の枠外に置かれている人も少なくない。だからといって「若い頃に年金保険料を払わなかったのだから自業自得」と切り捨てるわけにはいかない。

最低保障年金などの
制度の見直しを真剣に議論せよ

 制度がいくら「百年安心」だと言ってみたところで、困窮する国民が生まれるようでは意味がない。憲法二十五条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めていて、この規定は文明国家としての日本の誇るべき条文である。年金だけでも、健康で文化的な最低限度の生活が送れないのは大問題なのだ。
 現在の年金の平均受給額は、国民年金で月額五万五千円、厚生年金で月額十四万七千円。これも平均なので、実際にはこれよりも少ない人がいる。その金額で十分な生活が送れると言えるのかどうか。また、今後、年金支給額が減っていった場合、生活が成り立つか。
 本来、そうした最低保障年金などの制度の見直しを真剣に議論するのが政治家の役割だろう。年金支給額を増やそうと思えば、財源を確保しなければならない。増税をすれば、年金保険料を支払う現役世代にさらに負担がのしかかる。年金積立金を増やそうと思えば、株式などでの運用を本格化する必要がある。その株価が上昇するには、国の経済自体が成長しなければならない。
 財政赤字が続き、国の借金が一千百兆円を超える中で、単なる分配論だけでは年金を安定的に支給することは難しい。経済政策すべてを「年金を増やす」ために整合的な政策に変えなければならない。
 そうした議論は、現状の制度を批判するだけでは生まれてこない。選挙の争点にするのは構わないが、単に批判だけでなく、実現可能な「対案」を示すのが野党の役割だろう。与党を批判するだけの野党に政権を任せても、結局何もできないというトラウマが日本国民の中にあることを、野党は忘れてはいけない。