日経ビジネスオンラインに3月16日にアップされた『働き方の未来』の原稿です。オリジナルページ→http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/021900010/031500063/
安倍内閣による賃上げ要求が後押し
どうやら賃金の上昇を実感できる春になりそうだ。2018年の春闘は3月14日に主要企業の集中回答日を迎えたが、多くの企業が5年連続でベースアップ(ベア)を実施、前年実績を上回る回答が相次いだ。企業業績の好調が背景にあるのはもちろんだが、安倍晋三首相が経済界に「3%の賃上げ」を求めてきたことも、高水準の回答を後押しした。もっとも、ベアと定期昇給(定昇)分だけで3%の賃上げとした企業は少なく、手当や一時金などを合わせて3%をクリアした企業が目立った。
新聞各紙の報道によると、トヨタ自動車は回答額を非公表としたが、ベースアップ相当分は2017年の1300円を上回る額になった。ベアと定昇に、期間従業員の手当などを全て含めた全組合員の給与額は平均で3.3%増となったという。また、ホンダが前年の1600円のベアを1700円に引き上げたほか、日産自動車は前年の1500円から3000円とし、要求に満額回答した。
また、日立製作所と三菱重工業のベアはともに1500円と、前年の1000円を上回った。NTTグループ主要6社は前年の1400円を上回る1800円の回答を行った。
日本経済新聞が行ったアンケート(回答90社)によると、7割の企業がベアを実施、そのうち74%の企業がベア額を拡大したという。
同じ日経のアンケートによると、ベアと定昇を合わせた「基準内賃金」の引き上げ率が最も多かったのは「2%台」で69%に達した。3%超とした企業は全体の22%だった。もっとも前述のように、一時金や手当を含めて「3%」に達した企業はそこそこの割合になる可能性があり、安倍首相主導の「官製春闘」は一定の成果を上げることになりそうだ。
安倍首相はアベノミクス開始以降、「経済好循環」を訴え続けてきた。大胆な金融緩和の結果、円高が修正されたことで企業収益が大幅に改善、過去最高の収益を記録している。
そんな中で、企業の内部留保ばかりが増加し、従業員の給与増になかなか結びついていなかった。
一方で、物価はジワジワと上昇が続いており、2017年の現金給与総額は物価上昇を加味した「実質ベース」でマイナスになっていた。今春闘で物価上昇率を超える大幅な賃上げが達成できなければ、「経済好循環」は掛け声倒れに終わりかねない。
「入社6〜7年で辞める人が増えている」
物価上昇分を吸収できるだけの賃金上昇が実現できなければ、庶民の財布のヒモは緩まない。個人消費が今ひとつ力強さに欠けているのも、実質賃金がなかなか増えない点に原因がある。
今回の春闘を1面で報じた3月15日付けの日本経済新聞は、ひとつの特徴として、「横並び意識に変化」が起きているとし、サブ見出しに立てていた。これまでの慣行を破ってトヨタが回答額を非公表としたことや、他の自動車大手がベアを小幅の増加にとどめる中で、日産だけが満額回答したことを例として挙げていた。
背景には、優秀な人材を維持・確保するために待遇改善が必要だと考える経営者が増えていることがありそうだ。すでに3月1日から2019年春卒業予定の大学生の就職活動が始まったが、早々に内々定を出しているという話が広がるなど、序盤から過熱している。今後は少子化の影響が本格化し、人手不足が一段と深刻化することになりそうだ。そうした中で、若手の「即戦力」の引き抜きや、転職などが広がっている。
「入社6〜7年で辞める人が増えている」と総合商社の人事担当役員は話す。入社1〜2年で辞めるのならば、もともと適性が無かったという事で諦めもつくが、5年以上たって一人前の仕事ができ始めた段階で辞められるのはショックだという。「ようやく基礎訓練を終えて、仕事をしてもらおうという段階で辞めてしまわれては大損害」だというわけだ。
転職支援会社の役員に言わせれば、「30歳前後の人材が即戦力として最も需要が大きい」という。外資系で事業拡大を狙っている企業などでは、こうした層に照準を合わせて採用を行うところも少なくない。
というのも、外資と日本の大手企業の社員の給与で、30代前半ぐらいの格差が驚くほど大きいからだ。まだまだ年功序列賃金が主流の日本の大手企業では、30歳ぐらいの社員の給与は働きに比べて大幅なディスカウント状態にある。外資系企業で中間幹部として採用されれば、年収1000万円は軽く超えるが、日本の大企業ではフルに残業してもなかなか1000万円には届かない。
今はSNSやネットの情報を通じて、様々な企業の待遇が事実上「ガラス張り」になっている。転職情報もネット上にあふれており、別に仕事を探すハードルが低くなっているのだ。
当然、30歳台の優秀な人材ほど、引く手あまたの状態になっている。日本の大手企業は給与の引き上げなどを積極的に行わなければ、もはやこうした流れに抗することができなくなっているのだ。
優秀な人材を低賃金で我慢させられるのか
トヨタが賃上げの回答額を非公表にしたのも、一律での回答数字に意味が薄れている事が背景にあるという見方もある。これまでの終身雇用年功序列を前提にした日本の会社では、30歳から40歳前後の「最も働ける世代」の賃金はむしろ格差が小さかった。将来幹部候補になる人もそうでない人もほぼ待遇に差が無かったわけだ。
会社の選別が明らかになるのも早くて40歳代後半で、そこまでは格差をあえて付けないのが日本流でもあった。誰にでも役員になれるという「幻想」を抱かせることが、むしろ一生懸命働くインセンティブになると考えたのだろうか。
ところが、格差をつけないということは、優秀な人材に相対的に低い賃金で我慢させる、ということになる。かつてのように企業が成長していた頃は、ポストをあてがうなど、面白い仕事を任せることによって「将来」に期待を持たせることができた。この会社にいれば、将来が見えるという安心感を年功序列で与えていたわけだ。
ところが、ここ20年、成長が止まったことで、日本を代表する大企業の多くでは、将来へ期待を従業員に抱かせることに失敗した。というよりも成長しないのだから、なかなか面白い仕事を与えることもできないし、将来の好待遇を約束することもできない。そんな環境の中で、若手社員の会社に対する帰属意識、ロイヤリティはどんどん低下していった。
さすがにここへ来て、グローバルな競争をしている企業は危機感を強めている。優秀な人材を採用し、見限られないで長く働いてもらうには、むしろグローバルな水準での報酬や働き方を保証しなければ難しいことに気が付き始めたのだ。
2018年1月の有効求人倍率は1.59倍。すでにバブル期を上回ったうえ、高度経済成長期に匹敵する人手不足に直面している。安倍内閣が進めてきた女性活躍促進や高齢者の就業機会の増加といった施策もあって、女性や高齢者の就業も大幅に増えた。むしろ、女性や高齢者の労働市場参入はそろそろ頭打ちになって来る可能性もある。そうなると少子化の影響がモロに効いて、人手不足はいよいよ本格化する。企業間の人材争奪戦はさらに激化することになるだろう。
賃上げが実感できる春闘になったことは、賃上げ余力の乏しい低収益の企業にとっては、厳しい春になることを意味する。待遇改善できなければ、優秀な人材を採用できず、事業に支障をきたすようになる。まさに、悪循環が始まる第一歩になるからだ。