「楽しみ方を広げる」それが崎陽軒の変わらない原点

雑誌Wedge 2022年8月号に掲載された拙稿です。Wedge ONLINEにも掲載されました。ぜひご一読ください。オリジナルページ→

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/28218

 「横浜名物」と聞いて、「崎陽軒のシウマイ」を思い浮かべる人も多いに違いない。何せ、1928年(昭和3年)に発売以来、もうすぐ100年になる超ロングセラー商品だ。関東に住む人はもちろん、全国各地に多くのファンが存在する。

 「発売以来、豚肉と干帆立貝柱を使う原料は同じで、一度も味を変えようと意図したことはありません」

 4代目社長の野並晃さんはそう語る。だが、もちろん、同じものを単に売り続けることで、今日まで存続できたというわけではない。世の中が大きく変化する中で、「常に楽しみ方を変えてきた」と野並さんは言う。常に新しい「楽しみ方」、新しい形を提案し続けることで、多くのファンを惹きつけてきた、というのだ。

 実は崎陽軒のシウマイは、買う人の「楽しみ方」を考えることから生まれた。もともと崎陽軒は1908年(明治41年)に初代横浜駅(現在の桜木町駅)の構内営業の許可を得たことをルーツとする。牛乳やサイダーなどの飲み物や餅や寿司などを売っていた、という。その後、横浜駅が現在地に移るのと共に移転。大正時代には駅弁も売るようになった。

 ところが、横浜駅は駅弁を売るには不向きな位置にあった。上り列車は終着の東京駅に近く、横浜で弁当を買う客は少ない。逆に下りの客は、出発地の東京駅で駅弁を買い込んできてしまう。何か「横浜ならでは」のものを作って売ろうと考えた、という。

楽しみ方へのこだわりで
生まれた横浜の新名物

 南京街(現在の横浜中華街)で突き出しとして出されていたシューマイに目を付けた。だが、列車内で食べる頃には冷めてしまう。「冷めてもおいしい」にこだわった結果、豚肉と干帆立貝柱を使うことに行き着いた。さらに揺れる電車内でも食べやすい、小ぶりのひと口サイズにした。崎陽軒のシウマイはそもそも「楽しみ方」にこだわった結果生まれた商品だったのだ。

 崎陽軒のシウマイが一躍有名になったのは、横浜駅に「シウマイ娘」が登場した1950年(昭和25年)から。駅弁と言えば、弁当を入れた岡持を首から下げ、野太い声で「ベントー」と言いながらホーム上を売り歩く男の力仕事というのが相場だった。それを赤い服を着てたすきをかけ、手籠にシウマイを入れ「シウマイはいかがですか」と車窓から声をかける「シウマイ娘」に代えたのだ。旅情を誘う横浜ならではの一風景として話題になり、横浜駅の停車中にシウマイを買うのが旅行者の楽しみになった。

 そんな「シウマイ娘」を一躍有名にしたのが、52年に毎日新聞に連載された獅子文六の小説『やっさもっさ』に、「シウマイ娘」が登場したこと。翌年には映画化もされ、シウマイ娘に桂木洋子、相手役に佐田啓二という当時の売れっ子が扮したことで、全国に知れ渡った。54年には、今や横浜界隈で最も売れるお弁当になった「シウマイ弁当」が誕生した。

 翌年には、シウマイの箱に入れる磁器製のしょう油入れ「ひょうちゃん」が誕生。新たな「楽しみ」を加えた。漫画家の横山隆一氏が描いた「ひょうちゃん」は48種類。今もそれを作り続けている。記念のタイミングなどに特製の「レアものひょうちゃん」を出すこともあり、熱心なコレクターもいる。

 「楽しみ方」への工夫は、崎陽軒の伝統でもある。今や当たり前になった駅弁に「お手拭き」を付けたのも崎陽軒が最初。列車内で食べるのではなく、お土産に持っていきたいという要望に応えて「真空パック」のシウマイを67年に出したが、この言葉を発案したのも崎陽軒だった。

 だが、その後、列車の旅は大きく姿を変えていく。停車時間は短くなり、窓も開かなくなって、ホームでの駅弁売りは姿を消していく。駅の構内や駅直結のショッピングセンターに売店を出すケースが増えたが、これを通勤客などが買っていくケースが多くなった。旅のお供ではなく、夕食や晩酌の肴へと「楽しみ方」が変わっていったのだ。これに伴って、昔ながらのシウマイだけでなく、特製シウマイ、えびシウマイ、かにシウマイとラインナップを広げていった。現在、箱詰めされたり、弁当に入れられたりして売られるシウマイは、1日約80万個製造されるまでになった。

 そんな「駅弁」からの進化を象徴するのが、ロードサイドの販売店だ。住宅地の道路沿いなどに崎陽軒のお店を出し始めた。駅ではなく生活圏に出向いていって買ってもらうスタイルへと変えようとしたのだ。当初は「実験」だったが、これが新型コロナウイルスの蔓延時に大きな救いになった。

 人の移動が止まったことで、ターミナル駅売店での販売は落ち込んだ。一方で、在宅勤務が増えたことで、住宅地での弁当やシウマイの売れ行きは一気に伸びた。家庭での新しい楽しみ方に対応する「冷凍品」などの商品も売れ筋になった。新型コロナで新しい楽しみ方のスタイルが生まれたのだ。コロナ禍以降、新たに15店舗出店した。

崎陽軒の原点は
「駅」・「鉄道」・「横浜」

 「崎陽軒のファンのお客様には、鉄道ファンや駅弁ファンがたくさんいて、そうした皆さんに支えられているんです」と野並さんは言う。崎陽軒の原点は「駅」であり「鉄道」だというのだ。東海道新幹線のぞみ30周年記念で、JR東海ホテルズの「ホテルアソシア新横浜」からコラボを持ち込まれたのにも、快諾した。シウマイのパッケージデザインを施した枕や布団、シウマイ弁当のデザインのクッションなどが置かれた部屋には、グリーン車のシートも置かれ、旅行気分を楽しむことができる。

 さらに、同業の弁当事業者とタッグも組んだ。兵庫県姫路市の駅弁の老舗「まねき食品」と提携、「関西シウマイ弁当」を発売したのだ。パッケージや弁当箱は本家のシウマイ弁当と似ているが、シウマイそのものの味はまったく違う。関西流に、昆布だしと鰹節のうま味をきかせ、刻みレンコンが加えられている。シウマイは崎陽軒が製造、その他はまねき食品が作る。1日300~400個の限定だが、累計3万個を売るヒット商品になった。

 もうひとつ、野並さんが大事にしたい「原点」だと語るのが、「横浜のおいしさを、創りつづける」ということ。社名英文ロゴの下にも書き入れ、崎陽軒の哲学にもなっている。今や崎陽軒のシウマイは全国区だが、あくまで「横浜」にこだわるというのだ。

 先代社長である父の野並直文会長が、創業100周年だった2008年に掲げた経営理念に「崎陽軒ナショナルブランドを目指しません」と明示したのを引き継いでいる。一時は全国のスーパーにも卸して買えるようにしていたが、今はデパートの催事などに絞り、あくまで「横浜」を売りにしている。その心は、本物のローカルブランドはグローバルに通用する、ということだという。

 変えないために変わる──。野並さんは、「社長が交代しても、『楽しみ方』を広げるために常に『新しい種まき』をする崎陽軒のあり方は変わらない」と語る。時代が変わっても、そんな種が一つひとつ花を咲かせるということなのだろう。